Copyright (C) 2020 トリビアハウス All Rights Reserved. 文/砂原浩太朗(小説家) 室町幕府最後の将軍・足利義昭(1537~97)は、知名度のわりに人気があるとは言いがたい存在だ…, 文/砂原浩太朗(小説家) 足利13代将軍・義輝(1536~65)の生涯は、ある光芒を放っている。おさなくして将軍位につき…, 文/砂原浩太朗(小説家) わが国では推古天皇にはじまる女帝が何人か存在したし、海外でもエリザベス1世やエカチェリーナ2世…, 文/砂原浩太朗(小説家) 明智光秀(?~1582)は謎多き武将である。最大の疑問は、「なぜ本能寺の変を起こしたか」という…, 文/砂原浩太朗(小説家) われわれが「三国志」というとき、おおまかに分けて正史と演義があることは、ファンならご存じだろう…, 文/砂原浩太朗(小説家) 近年、女性がらみの不祥事で糾弾される芸能人が目につく。窮屈な世の中になったと嘆く声もあがるが、…, 文/砂原浩太朗(小説家) 晩年のクーデターで政敵を葬り、魏のなかで比肩する者なき実権をにぎった司馬懿仲達。が、みずからは…, 文/砂原浩太朗(小説家) 司馬懿(しばい。179~251)は、三国志のかくれた主役と呼べるかもしれない。おおかたのイメー…, 文/砂原浩太朗(小説家) 近年、戦国史の見直しが目覚ましいほどにすすんでいる。武将への再評価もさかんであり、桶狭間で織田…, 文/砂原浩太朗(小説家) 蜀の武将・趙雲(ちょううん。?~229)は、三国志のなかでも独特な存在だと感じる。朋輩である関…, 文/砂原浩太朗(小説家) 武田信玄や上杉謙信にはおよばぬだろうが、越前(福井県)の戦国大名・朝倉義景(1533~73)の…, 文/砂原浩太朗(小説家) 暴君か英雄か評価は分かれるにしても、歴史上、秦の始皇帝(前259~210)の存在感はだれもが認…, 文/砂原浩太朗(小説家) 織田信長を討った逆臣、という明智光秀(?~1582)のイメージは、20世紀の後半からしだいに変…, 文/砂原浩太朗(小説家) 中国の歴史をひもとく際、われわれ日本人にとってつかみにくいのが「宦官(かんがん)」と呼ばれる存…, 文/砂原浩太朗(小説家) 騒乱の絶えなかった室町時代にあっても、「嘉吉(かきつ)の乱」の衝撃は群を抜いている。なにしろ、…, 文/砂原浩太朗(小説家) 秦の始皇帝(前259~210)を知らぬひとは日本でもすくない。万里の長城や兵馬俑(よう)など、…, 文/砂原浩太朗(小説家) 歴史好きなら、濃姫(のうひめ。のひめ、とも)ないし帰蝶(きちょう)の名を知っている人は多い。織…, 文/砂原浩太朗(小説家) 軍師――「軍機をつかさどり謀略をめぐらす人」というのが広辞苑の定義である。誰もがまず思い浮かべ…, 文/砂原浩太朗(小説家) 西暦234年、宿敵・魏を討つべく軍をすすめた蜀の丞相(じょうしょう。宰相)・諸葛孔明は、五丈原…, 文/砂原浩太朗(小説家) 「お手前いつの間にやら鮒(ふな)に似て参ったな。おうおうそのように力(りき)んだ所は鮒そのまま…, 最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。, サライ最新号 文/砂原浩太朗(小説家) 楠木正成(くすのき・まさしげ。?~1336)のイメージは、劇的な移りかわりを経ている。戦前は「忠君愛国」の権化とみなされ、「大楠公(だいなんこう)」とたたえられた。が、その後はむしろライバルだった足利尊氏(1305~58)の陰にかくれたような印象がある。 日本は、にほん、にっぽんとも正式国名です。 こんな国は世界でも1つだそうです。 しいて言うなら、 大日本帝国憲法の時は「にっぽん」 日本国憲法になってからは「にほん」かも 「はっぽん」は100本と間違えやすいので「はちほん」がいいかと。 日本書紀の記述によれば、日本国の建国はこの時代の終わりに行われたとされる。, 縄文人の主要な遺伝子として、ハプログループD1a2a (Y染色体)、ハプログループC1a1 (Y染色体)が想定されている[4]。, 紀元前10世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。 “にほん” “にっぽん”論争の歴史. 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴式住居に住んだ。縄文式土器については、青森県大平山元I遺跡にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁撈、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。, 雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビエから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。稲作については、約6,000年前の岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていた。 ](以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代), 上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。, 一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(安土町・京都市伏見区)・江戸時代(東京都)と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため古墳時代後期から飛鳥時代前期に大和時代、鎌倉時代の後に建武の新政、室町時代前期に南北朝時代、室町時代後期に戦国時代、江戸時代後期に幕末という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間(一世一元の制)に従って明治時代(明治天皇)・大正時代(大正天皇)・昭和時代(昭和天皇)・平成時代(明仁)・令和時代(徳仁)と呼ばれている。これらのうち、明治維新から1947年(昭和22年)5月2日までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)を「大日本帝国時代」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある[1]。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→日本史時代区分表)。, また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁・貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化などが用いられる。, 日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年前までさかのぼる[2]。ただしこれはデニソワ人などの旧人の遺したものと考えられる[3]。, 古く北海道と九州方面は大陸と地続きでありナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では発掘されていない。 今回の主人公は弘法大師こと空海。彼が会得した真言密教というのがそもそも超能力志向の強い仏教であるので、それに由来しての超人伝説の多い人物でもある。, 空海は774年に讃岐の佐伯家に生まれた。幼い頃から読み書きに神童ぶりを発揮したので、宮廷の役人として将来が嘱望されて18才で大学に入る。しかしその時に虚空蔵求聞持法という修行によって記憶力を無限大にするという法を僧から聞き、それを会得するために激しい修行に打ち込むことになったという(空海はそもそもから優秀だがオカルト志向が強かったようだ)。そして激しい修行の中で明けの明星が体内に入るという体験をしたのだという(極限状態に体を追い込んだところでついに妄想が起こったということだろう)。そしてこの謎の体験の意味を理解するためには、当時の最先端の文化の地である唐を訪れるしかないと考えたという。, 空海は国費留学生で優遇されていた最澄とは違い、私費留学生であって様々な制約があったという。しかし中国語がペラペラで頭の回転が速く書にも長けていた空海は中国でもすぐに頭角を現す。唐であらゆる仏教を吸収した空海であるが、最も興味を抱いたのが当時最先端であった密教だった。密教の経典を読むために空海はインドの言葉であるサンスクリット語をわずか3ヶ月でマスターしたという。密教は習得すると超人的能力を発揮できることを謳っており、この辺りもオカルト志向の強い空海の興味を惹いたのだろう。, 空海は密教を習得するために青龍寺の高僧である恵果の元を訪れて教えを仰ぐ。無謀とも思える試みであったが、恵果は空海を受け入れたという。これについては恵果が後継者と見込んでいた弟子が亡くなったことと、恵果が既に病を患っていたこと、さらには空海の評判が恵果にも届いていたのではとしている。そして空海は3ヶ月で密教の最高位である阿闍梨を授かる。恵果は空海を自らの後継者とし、死の床で空海に故国で密教を広めるように言い残す。空海は大量の経文を持って日本に戻る。, しかし私費留学生は20年学んでくることになっている決まりを破って帰ってきた空海は、都に上れずに太宰府に留め置かれたという。空海は自らが持ち帰った経典の目録を送って、いかに自分が重要な教えを学んできたかを訴えたが、朝廷にそれを理解できる者がいなかったという。しかし3年後、空海は突然に都に呼ばれる。当時日本の仏教界の最重要人物になっていた最澄が彼が持ち帰った経典の内容に驚いて働きかけたのではという。特に唐で密教について学ぶことの出来なかった最澄は、空海が持ち帰った密教の奥義が魅力だったのだろうという。, 空海を招いた最澄は空海に密教を教えてくれるように依頼し、自ら空海の弟子になる。また最澄の弟子の多くも空海に学ぶことになったという。これで空海の評判も上がることになる。ただ両者の蜜月は徐々にすれ違いによる反目につながっていくという。それは最澄が阿闍梨を授けて欲しいと依頼したことのに対し、空海が「3年は修行が必要」と言ったことから由来するという(確か空海自身は3ヶ月の修行で終わってたはずだが? 2020年 第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」[5]とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。, 7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる日本書紀の編纂が開始される。, 8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期聖武天皇のときに中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の分化が始まり、逃散増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。, また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。, この時代には干ばつ・飢饉・山火事などの災害や疫病の流行が多発した[6]。特に、735–737年にかけて発生した天然痘のエピデミック(天平の疫病大流行)は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた藤原四兄弟も相次いで病死した[7][8]。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した[9]。, 文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名である。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。, 8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である武士階層が、契丹の台頭に呼応した承平天慶の乱や刀伊の入寇などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。, 12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。, 奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。, 東北地方では、11世紀頃から安倍氏・清原氏・奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役・後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。, 12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。, 13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。, 文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの鎮護国家を目的とする顕密体制の仏教から発した鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の擦文文化が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、またオホーツク文化と融合する中、アイヌ文化へと変遷を遂げた。, 14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。, 鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳天皇を即位させたが、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。, 後醍醐天皇は光厳天皇を退け建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した, 文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。, 14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。, 足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 「にほん」と「にっぽん」に大きな違いはなく、どちらも正式な読み方です。 よって、多くの人は語呂のいいほうで読んでいます。 ただ、企業の名前などは読み方が正式に決まっていることが多いので注意 … 日本がイラスト付きでわかる! 東アジアの島国。太平洋・日本海・オホーツク海・東シナ海の4つの海に囲まれる。 日本(にほん、にっぽん)とは [pixivimage:25365066] +東アジアに位置する立憲君主制国家 → 日本国 +1.の主要な領土である太平洋西岸の列島 → 日本列島 +1.を擬人化したヘタ … 岩戸遺跡から約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土したことで、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。, 約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。, 旧石器時代人の遺伝子としてハプログループD1a2a (Y染色体)が想定されている[4]。, 縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 辞書三冊をみても、扱いが「にほん」「にっぽん」のどちらを主とするか違います。 NHK編 日本語発音アクセント辞典 改訂新版(第9刷発行)昭和63年 を開いてみます。 コラム5「日本」(ニッポン・ニホン)に次のように記載されています。 弥生時代の開始期に大陸からハプログループO1b2 (Y染色体)に属す弥生人が到達した[4]。, 稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。, 当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。この時期の日本(倭)の状況は中国の史料で確認できる(倭・倭人関連の中国文献)。, 3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。, 4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ流入した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献), 5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。, 倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。, 倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。, またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。, この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。, 6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の大王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。, 6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王(聖徳太子)が、王殺しである蘇我馬子を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次遣隋使派遣の反省から、冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。