new! 「聖火リレー」最新現地レポート. 10: 2020/04/11(土) 00:02:59.74 . … !】 1992 Asian Cup 決勝 日本 vs サウジアラビア, http://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20101205-710164.html, https://web.archive.org/web/20110625175812/https://www.daily.co.jp/soccer/2011/06/24/0004202695.shtml, スペシャルインタビュー 三浦知良(横浜FC)第3回「プーマ生活31年のカズが、一度だけアディダスを履いた大会とは?」, http://www.daily.co.jp/soccer/2011/05/08/0004042231.shtml, Players with 100+ Caps and 30+ International Goals, Matches Players with 100+ Caps and 30+ International Goals, カズ 声優再挑戦!殺し屋「キング」“憧れ”ルパンと共演 ― スポニチ Sponichi Annex 芸能, http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/14/kiji/K20160914013350330.html, “<新・KIRIN FIRE 誕生。>三浦知良さん 柳楽優弥さん 坂本龍一さんを新たにイメージキャラクターに起用し新CMを展開!”, http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000020.000017850.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=三浦知良&oldid=80413317, 1993年から2012年までの20年間での「ベストイレブン」(2013年にJリーグ誕生20周年を記念した企画), 「ゴッドファーザー」好きは、よく行く店でカズが来店するとBGMに必ず「ゴッドファーザーのテーマ」をかけさせるほど徹底している。前園真聖に「(西麻布の行きつけの飲食店で)この曲がかかってたら必ず俺がいるから」と言っていたことを前園自身が語っている, 2007年、当時9歳の長男に「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」と聞いたら、冗談混じりに「, ロス疑惑の報道合戦から約四半世紀を経た2007年頃には、サッカー界では1980年代生まれの選手がJリーガー・日本代表の中核を占めていたが、この世代はもはや年齢的にロス疑惑と三浦和義を知らない選手がごく当たり前にいる状況となっていた。このこともあり、2008年2月、, FIFA - 1999年に「1960年以降の全てのオリンピック関係の試合が国際Aマッチと認められる訳ではないが、中間部分については更なる分析が行われる」という声明を出し, ルパン三世×名探偵コナンのスペシャルコラボレーション企画として特別出演した。幼少時から, 『サントリービア吟生・殻破りビール』(1991年)日本プロサッカー選手として初のCM出演, 『ラストダンスは終わらない: essay 2001-2005』(『おはぎ』を改題・文庫化、2012年、新潮文庫、, 『カズ語録』(『三浦知良 伝説の言葉- 蹴音 -』を改題・文庫化、2012年、PHP文庫、, 『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 - カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著), 『三浦知良写真集 KAZU KING THE VISUAL DOCUMENTARY』(山崎敏文 編集)小学館、1994年。, 『三浦知良のサッカー留学物語―日本人で初のブラジル・プロになった男』(大貫 哲義 著). 三浦知良、4631日ぶりにJ1チーム公式戦で躍動 大会記録を10歳以上更新/ルヴァン杯 「8年間CMに出演し続けていることは、僕の誇りです」, 「スプライト」がリニューアル! Pelé (Edson Arantes do Nascimento) Kazu Miura 2011 かつてサントスFCでプレイした、ブラジルと日本、二人のキングによる夢の対談。 『愛知のカテナチオ』東海学園、“極意”は守備重視にあらず…全ては「ポゼッションにつなげるため」, J1首位・川崎、2戦連続未勝利も2位と勝ち点差「14」に広げる 先制点の脇坂「ゲームだけに集中してできた」, J1鹿島、独走の川崎に一矢! DF永戸の新型コロナ陽性など“ドタバタ”で迎えた一戦、意地のドロー, 選手権出場を決めた帝京大可児、最大の功労者は監督が「かなり迷って」任命した“アツすぎる”主将だった, プロ野球はもとより、メジャーリーグ、サッカー、格闘技のほかF1をはじめとするモータースポーツ情報がとくに充実。芸能情報や社会面ニュースにも定評あり。, 小林麻耶からの反論メールを坂上忍が突然紹介「いじめの件は社長に伝えていたが守ってもらえなかった」, 波瑠 着衣脱ぐシーン熱演「人間くささが出ればと思って。恥ずかしさなかった」ラブホテルが舞台「ホテルローヤル」, 中日来季外国人「野手1人、投手1人は最低」与田監督、獲得お願い 内川らの補強「具体的な話これから」, 井上尚弥 カシメロの”度が過ぎる挑発”に激怒「ベルトを持ってなければ無視するんですけど…一回やりたい」, 写真・動画 プロサッカー選手の試合出場として、ギネス記録に登録された。,  カズの公式戦出場は、昨年11月24日のJ2最終節・愛媛戦(ニッパツ)以来。2-0の後半42分から出場し、J1昇格を決めた。先発は昨年8月14日の天皇杯3回戦・横浜M戦(ニッパツ)以来。 J1チームでの公式戦出場は、2007年12月1日のJ1最終節・横浜FC-浦和(日産ス)以来で4631日ぶり。, 三浦知良、4631日ぶりにJ1チーム公式戦で躍動 大会記録を10歳以上更新/ルヴァン杯 サンスポ・コム(SANSPO.COM)はスポーツニュースをはじめ、今話題の最新情報をお届けします。. 小倉優子 三浦知良、4631日ぶりにJ1チーム公式戦で躍動 大会記録を10歳以上更新/ルヴァン杯. 芸能ニュース. 元新潟31歳MF 初のブラジル代表 「アクエリアス」がもらえる!, 「コカ・コーラ」生誕130周年記念式典でコカ・コーラ社が見せた、 Copyright (C) 2020 SANKEI DIGITAL INC. All rights reserved. 55: 2020/04/11(土) 05:36:35.30 >>41 4文字だと思ってたわ . 三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手、元フットサル選手。J1リーグ・横浜FC所属。ポジションは左ウイング、センターフォワード(日本帰国後)。妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太[2][3]。 Jリーグ史上最高齢の53歳でJ1リーグでプレーしており、世界最高齢での得点記録を持っている。, 2017年3月12日、J2リーグ・ザスパクサツ群馬戦で50歳14日でのゴールを決め、「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定されている[4]。2020年9月23日、J1リーグ・川崎フロンターレ戦に先発出場し、 中山雅史のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた。, 日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)[5]。, 1967年2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた[6]。叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという[6]。1973年、静岡市立城内小学校に入学した[7]。小学時代には、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた[8]。小学校4年生の時に両親が離婚、三浦姓を名乗るようになった[9]。, 1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退し、ブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属した[10]。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた[11]。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した[12]。, 1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが、最終的に翻意しブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである[13]。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていたフォワードの中山雅史、フォワードの武田修宏らと試合を行った[14]。1986年1月[注 1] には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった[12]。, 1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約[7] を結んだ。チームメイトであったドゥンガからはデビュー戦でのプレーを叱責された[15]。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし[7]、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした[16]。, サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍した。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し[17]、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした[18][19]。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された[20]。, 1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍した[7]。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人[19][21]。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった[22]。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた[23][24]。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている[25]。, 1989年2月、エドゥーが監督を務めていた、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した[7]。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAのコモへの移籍を進めていたという話を聞かされた。)[26]。7月にはブラジルにやってきた日本代表と対戦した[27]。, 1990年、2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍した[7]。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断ってサントスと交渉した[28]。移籍後にレギュラーの地位を確保すると、同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利した。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え[29]、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った[30]。, 1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかった[31]が、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1990年10月28日のNKK戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKで初ゴールを決めただけでなく、3つのアシストを決め、全得点に絡む活躍で4-0で勝利[32]、このシーズンはリーグ優勝に貢献して、リーグのベストイレブンにも選出された[33]。1991年3月10日、ヤマハ発動機戦では、三浦泰年のゴールをアシスト、弟から兄へのアシストは高校時代以来であった[34]。1992年4月12日のゼロックスチャンピオンズカップ決勝のトヨタ自動車戦では1ゴールを決めて優勝に貢献した[35]。1992年のJリーグカップでは9月19日のガンバ大阪戦でリーグカップ史上初めてとなるハットトリックを決めると[36]、準決勝の鹿島アントラーズ戦で決勝ゴールを決め[37]、決勝の清水エスパルス戦でも決勝ゴールを決めるなど[38]、ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。, Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージ、5月26日5節の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めたが[39]、クラブ内の内紛(欧州路線)や日本代表の過密スケジュールの影響を受け18試合5ゴールという成績に終わった。第2ステージからビスマルクが加入。7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは2得点を決める活躍を見せ[40]、大会MVPに選出された。その後は調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した[注 2]。12月8日17節浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決め[41]、ニコスシリーズ18試合で15ゴールを挙げ、チャンピオンシップの鹿島アントラーズ戦では第1戦、2戦共にゴールを決め、年間優勝に貢献するなど、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍を見せた[42]。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続いて1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで釜本邦茂、奥寺康彦のみであった[42]。)50分間プレー[42][43]、サイドからのクロスでウーゴ・サンチェスの得点をアシストした[42][44]。前日には世界選抜に選ばれたメンバーの中で唯一、ACミランの練習に参加した[42]。またこの時、セリエA関係者からの興味が伝えられ、イタリアのマスコミから取材を受けるなど注目を集めた[42]。, 1994年には移籍を認めたくなかった渡辺恒雄から、1年間のレンタルということでようやく了承を得て[45]、イタリア・セリエAのジェノアCFCに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍にはジェノアの会長アルド・スピネッリがプレーぶりを見て魅力を感じたこと[46]、そして商業的な価値を期待してのもので、ジェノアのユニフォームの広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた[47]。, プレシーズンマッチの地中海カップでは、ACミラン相手に好プレーを見せ[48]、コパ・イタリア2回戦のチェゼーナ戦で先発出場して公式戦デビュー[49]、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にバレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた[50]。, 復帰後、第12節のサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、マニコーネの浮き球からスクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA4試合目の出場で初ゴールとなる[49]、先制ゴールを奪ったが、これがジェノアでの唯一の得点となった[51]。16節のパドヴァとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストをした[52]。第31節のユベントス戦では65分から途中出場したが、退場者が出て10人での戦いを強いられたこともあり、シュートすら打てずに試合終了[49]、代表戦の為、残りの試合とセリエB降格プレーオフには出場せず帰国、また1994年10月にはアジア大会への出場のために帰国したことや(セリエA3試合、コパ・イタリア試合を欠場[49]。)、度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)[53]、第19節のフィオレンティーナ戦でのループシュートはクロスバーに当たり得点ならず[54]、また自身の誕生日に出場したナポリ戦など[55]数回のゴールがオフサイドで取り消されたことなどもあり、シーズン1ゴールのみに終わった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが[56]、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった[57]。ジェノア在籍時にはジェノヴァの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた[58]。3度の監督交代など[49]様々な事情もあり[45]、成功は収められなかったが、これまでイタリア人がもっていた日本のサッカーとサッカー選手に対しての概念を変えさせ、その後日本人選手たちのセリエA入りの扉を開いた[46][59]。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に先発出場、裏に抜け出し洪明甫のスルーパスからシュートを放つが、シュートはGK正面に飛び得点は奪えなかった[60]。, その後、Jリーグの1995年シーズンは第2ステージから復帰し、復帰初戦、8月12日ベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めると、9月2日、6節鹿島アントラーズ戦、9月13日、9節横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど[41]、26試合で23ゴールを挙げ、得点ランキングの上位に名を連ねた。, 1996年のJリーグは初の一シーズン制となったシーズンとなったが、ヴェルディ川崎は7位に沈んだものの、11月6日のジェフ市原戦でハットトリックを決めるなど[41]、三浦自身はリーグ得点王になるなど個人的な活躍を続け、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇にも貢献した。また1996年にはFIFAの世界選抜に選出され、ブラジル戦に先発出場した。, 1997年シーズン頃から衰えを見せ始めた。怪我の影響もあり同年の試合出場数は全試合数の半数に満たない14試合にとどまり、得点数は4点、チームも初の二桁順位と、三浦個人・チームともに振るわぬ成績に終わった。この年あたりから以前のようなキレが徐々に無くなって行き、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦でのラフプレーで尾てい骨を骨折しコンディションを大きく落とす。翌1998年もコンディションは戻ること無くチームも2年連続で二桁順位。さらに年末にV川崎は親会社の事業撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、三浦に対しても年俸ゼロ円提示がなされた。, カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍した。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった[61]。この時チームメートになったユーリッチのサッカーへの取り組み方や考えに影響を受けた[62]。カズはデビュー戦となったムラードスト127戦ではアシストを決めるも、PKを失敗した。5月23日のオシエク戦では退場処分を受けた[63]。ザグレブはクロアチア・リーグで優勝を果たした。シーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるオズワルド・アルディレス監督に戦力外とされ[63]、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦[64]、得点は無かったが、クロスバー直撃のシュートを放った。, 1999年7月、イングランド、スコットランドなどのクラブとの交渉がまとまらず[63]、当時元日本代表監督の加茂周監督からの熱心な誘いを受け[63]、京都パープルサンガに移籍。中村忠と再び同僚となった。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた[63]。2000年5月13日の対神戸戦でJリーグ通算100得点を達成[65]、この試合で101点目となる決勝ゴールも決めた[66]。11月23日の古巣ヴェルディ川崎戦でハットトリックを決めるなど[41]、33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都はJ2に降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。, 2001年からは永島昭浩引退直後のヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。2節のFC東京戦で移籍後初得点を挙げる。11月24日神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では、巧みなトラップで相手DFをかわし、自身を代表するゴールの一つとなるゴールを決めるなど[67]、11ゴールを決めて健在ぶりをアピールした。2002年は代表でもプレーした城彰二や兵庫県出身でもある播戸竜二が加入。2002年1stステージ第3節ガンバ大阪戦では久々にカズダンスを披露した。しかしこのころからフル出場する試合が徐々に減り始める。2ndステージでは臀部の怪我のため長期離脱しほとんど出場機会を得られなかった。, 2003年はオゼアス・播戸竜二の2トップのバックアッパー的な役割を担うことが多くなり、ベンチスタートとなる試合が増えた。1stステージ8節でシーズン初得点を挙げ、新本拠地での初勝利に貢献した。2ndステージ終盤の残留争いの最中、オゼアスを出場停止で欠き久々にスタメンがめぐってきた鹿島戦では相手ゴール前で素早いターンからこの試合の先制点を決め、ホームでの3か月ぶりの勝利に大きく貢献した。, 2004年、12節ガンバ大阪戦で11年連続ゴールを記録。2ndステージに入りエムボマ、平瀬智行らが加入しポジション争いは激化。チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にスタメンを奪取し3試合連続ゴールを記録するなど、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし播戸竜二に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。, 2005年は、開幕3試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。エメルソン・レオンが辞任し、パベル・ジェハークが就任すると、完全に構想から外れ、主将も三浦淳宏に譲った。7月26日に行なわれたボルトンとの親善試合を最後に神戸を退団した。, 横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍した。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立ち、前身のインターコンチネンタルカップを含め、日本人として初めて同大会に出場した選手となった[68]。, 2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。2007年はシーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた[69]。, 2008年はシーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節愛媛FCとの試合にて、待望のシーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。2009年も横浜FCと契約、第2節ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点は、この1得点のみに終わった。, 2010年にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが[25]、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷[70] に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。しかし出場した際には常に好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節ファジアーノ岡山戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した[71]。9月26日のJ2第28節カターレ富山戦では、久々の直接フリーキックを決めた[72]。更に12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した[73]。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された[74]。, 2011年3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。このゴールは世界に中継されたが、英語実況では「national treasure Miura」と評された。このシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップ。, 2011年12月、カズは横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した[75]。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。, 2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出され[76]、フットサルでも軽快な動きを見せたり、ゴールを決めたりするなど、年齢を感じさせない活躍をしている。, 2012年12月22日、JFLのチームでJリーグ準加盟の承認も受けているSC相模原から2年契約で完全移籍のオファーを受けたことを報道された[77][78]。J2第16節ガイナーレ鳥取戦でゴールを決め、Jリーグ最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。, 2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結んだ[79][80]。シーズン途中の6月にはかつてプレーした古巣東京ヴェルディが獲得を打診していると報道された[81]。同年7月3日、J2第22節栃木SC戦で開始16秒に今季初得点を記録し、最年長得点記録を46歳4ヶ月7日に更新した。また、11月3日にはJ2第39節松本山雅FC戦でゴールを決め、46歳8ヶ月8日に更新した。, 2014年6月5日、JFA国際委員を務める梅田邦夫・駐ブラジル日本大使からの要請を受け、日本サッカー協会が三浦をワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命、同月12日に日本を出発、現地時間同月14日の日本対コートジボワール戦を観戦し、同17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加するものの、日本代表への同行や合宿地訪問は行わずに同月20日に帰国する予定となった[82]。, 2014年シーズンは、2試合のみの出場となってしまったが、2015年シーズンは、3月9日に行われたJ2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場[83]。4月5日に行われたジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新した[84]。現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げている[85]。かつて所属したイタリアでも「ミウラが日本で奇跡を起こした」「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」と報じられた[86]。, 2015年6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録をまた更新[87]。同年11月11日、横浜FCとの来季の契約延長を発表。カズの背番号に因んで11月11日の11時11分に契約延長が発表された[88][89]。この契約延長はイタリアやイギリス、スペインなど海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は「時代を超越した存在」と称賛した[90][91]。前園真聖は「還暦(60歳)までやるって言っていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」とコメントしている[92]。, 2016年、6月19日に行われた岐阜戦で得点を挙げ自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新[93]。さらに同年8月7日に行われたアウェイでのC大阪戦では、69分にチームが2-0で負けている状態で途中出場し、75分に自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新するゴールを決めた。また、カズの得点の後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利を挙げた[94]。, 2017年、背番号11にちなみ、1月11日11時11分に横浜FCのクラブ公式サイトで契約を延長したと発表された[95]。この年の開幕日は誕生日の2月26日であり、開幕と同時に50歳となり初の50代Jリーガーとなる。しかし、本人は冷静に「49歳から1つしか年をとっていない。実際は数字的なもので大した変化はない」「少しずつ全部が衰えていくのが普通。でもサッカーは11人の連動。基礎体力と技術があれば組み合わせ次第で新しい自分が見せられる、ゴール前の動き次第で点が取れる」と述べている[96]。この契約更新はイタリアの大手スポーツ紙『コリエレ・デッロ・スポルト』など世界でも報じられ、イケル・カシージャスが「僕は40歳までプレーしたいと思っているよ。でもこれを読んでいたら50歳までプレーしたいと思った。なんて素晴らしいんだミウラ!」とTwitterに投稿した[97]。2月26日、開幕戦の松本戦で先発し、Jリーグ史上最年長記録の50歳を更新した。3月12日の群馬戦でもゴールを決め、自身の持つJリーグ最年長得点記録を50歳と14日に塗り替えた[98]。この記録はイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『ガーディアン』など世界でも報じられ[99]、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定された[100]。, 2019年3月23日に行われた第5節のFC岐阜戦にスタメンとしてシーズン初出場を果たし、自身の持つJ最年長出場記録を更新した[101]。11月24日、J2最終節の愛媛FC戦で途中出場し、J2最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新した。チームは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた[102]。, 2020年1月14日にチームと契約を更新した[103]。2020年9月23日の川崎フロンターレ戦で2007年以来のJ1でのリーグ戦に出場、 中山雅史のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた[104]。, フル代表デビューは1990年9月26日、第11回アジア競技大会、バングラデシュ戦[105]、先発出場すると、前半4分にPKを奪取、前半26分には長谷川健太のゴールをアシスト、後半15分には倒されて獲得したFKからゴールが生まれるなど、全得点に絡む活躍を見せた[106]。1992年、ダイナスティカップの北朝鮮戦で代表初ゴールを決めた。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得した。, AFCアジアカップ1992のグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした[107]。決勝のサウジアラビア戦では左サイドからのクロスで高木琢也の決勝ゴールをアシスト、優勝に重要な役割を果たした[108]。, 1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。北朝鮮戦で2ゴールを決めて最終予選の初勝利に貢献、続く大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦のイラク戦でも1ゴールを決めたが、ロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている[109]。, その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)[110][5]。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、それに向かっていこうとする姿がマスコミに大々的に報じられた[111]。その理由を「6日後に韓国との試合を控える中で、選手の移動バスを止めたことに腹が立った。」からだと後に語った[111]。, その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか?