Tweet, 1958年北海道小樽市生まれ。 2007年〜2012年 山本ふみこさんのうふふ日記, http://fumimushi.cocolog-nifty.com/fumimushi/. Tweet, つぎの年の手帖と予定表をもとめる季節がめぐってきた。 いそいそと出かけてゆき、いそいそではあるけれども、毎年おんなじものをもとめる。ことしもまた。 無印良品の月曜はじまりのカレンダー(ヨコ20,0×タテ14,5cm)。 同じく、A6サイズの帖面(10,5×14,8cm/A5サイズの半分)。 これを2006年から使っていて、気がつけば15冊めが終わり、じき16冊めにうつろうことになっている。 わたしの「ありのまま」の日常があらわれたカレンダーと帖面は、調べたいことがあって見返すたび、気持ちをくすぐられる。どちらも、仕事・しごと・遊び・年中行事ほかがごちゃ混ぜに記録されていて、じつにわたしらしい。 わたしはごちゃ混ぜ人間。 どの場面でも、同じ調子で動いているごちゃ混ぜ人間だ(ところどころ緊張の度合いは異なるが、それも年年たいした違いでなくなってきている)。 そうして突如として2021年の予定表(カレンダー)と帖面をさすり、もの想いするわたし。 ……会えない誰かを思うことがふえた。 遠くにいて会えないあなた。 事情が許さず会えないあなた。 離れ場ならになって以来、行方知らずで会えないあなた。 あの世とこの世に隔てられ、会えないあなた。 きっとこれから先も、そんな「あなた」はふえてゆく。 2012年、初めてカルチャーセンターでエッセイの講座を持ったとき、忙しい仕事をやりくりして1期だけ参加してくれたケーコさん。 1期が終わったとき、カードをくださった。「エッセイを書いてみよう」 参加させていただきましてありがとうございました。 参加しなかったら、生まれなかった原稿が4本、財産として残りました。 つぎの期は残念ながら出席できませんが、「今ごろ新宿で山本さんが黒板に言葉を書いている」と、講義の日には思い浮かべることにします。「今ごろアラスカでは熊が森を歩いている」と都会で思い浮かべるのは2つの時間を生きることだと星野道夫が言ったみたいに。では、またの再会を。 ね、素敵な手紙でしょう? わたしはいつもこのカードを帖面にはさんで持っている。「2つの時間を生きられますように」と希って持っている。 会えない「あなた」を思いながら、そっとカードを読み返す。 いま、ガマズミは、こんなふうになっています。このたびの器も、友人の手になるもの。木の器で、エゴマのオイルを塗って仕上げてあるとか。これには水は入れません。見ているだけで、力とやさしさを注がれるのです。, 2020年11月 3日 (火) 日記 | 固定リンク 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年 7月15日 - 1983年 8月11日)は、日本の映画監督である。 鹿児島県出身。 早稲田大学 文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。 息子の山本駿、山本洋も映画監督。 山本ふみこさんのうふふ日記 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、女優・実業家・社会事業家。兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。, 1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。, 山路ふみ子という芸名の由来は、菊池寛の小説『結婚二重奏』のヒロインの名を菊池本人から頂戴したものである。, 帝国キネマから日活へ移籍後、新興キネマに復帰し、主演女優として多くの作品に出演し、 | コメント (23) 6 月 20 日に映画「愛を積むひと」が封切られた。 公開にさきがけて、この作品に寄せて新聞に 2 本のエッセイを書いた。広告の意味合いがあったけれど、「ほんとの感想しか書かないぞ」と誓って、試写を観る。 じつにいい映画だった。 Tweet, 気がつけば、しばしば「テンネン」ということばを受けとるようになっていた。 初めてのときには、かすかにあたふたしたけれど、それが愉快方面のものなのか、不愉快方面のものなのか、たしかめることもしなかった。それはたぶん、不意をつかれて、受けとった「テンネン」なる音に漢字を当てはめ損なったからでもある。 天然? 天燃? 天粘? 天念? 天年? あれは40歳代の終わりだった。 友人の息子のRクンに「テンネン」と決めつけられた。彼は高校生で、わたしのほうを見て、「山本さんて、テンネンですね」と云ったのだ。検証の機会到来、とわたしは思った。「Rクン、いまテンネンって云ったね。それは何なの? 当てはめる漢字は『天然』よね。それは何なの? ……天然果汁100%っていう感じ?」(ここで、わたしは高校男子にあはは、とやられる。あはは、あはは)。「笑ってないでおしえて。わたし、ときどき云われてきたの。天然と」。「天然ボケとか、天然キャラとか。一部、そのひとの勘違いとか非常識の要素も含まれているかな。『天然』を天然果汁100%と思っちゃうところとかです。だけどそれにしたって、場を和ませるような類いのものなんです。愛すべき天然キャラ」 なるほどそうか。 初めて天然、とやられたとき、わたしをあたふたさせたものはこれだったのね。ボケ。わたし、ボケてるんだわ。 そう思ったら、何だかほっとしてしまった。人生の道の上で張りつめることも、凍りつくことも、頑なになることもあった。行きがかりで、悲壮感を抱くことすらあって、わたしはそれを抱いたまま何かを探してさすらってもきたけれど、天然ボケであったおかげで、いつしか楽観に転じることができたのかもしれない。 道の端に紫陽花が咲いていた。「アナタ方も、天然?」 と聞いてみる。「ええ、ワタシたち、ホンモノの天然です」 福井県在住の友人から、蓋つきの器が届きました。越前焼きの陶芸祭りでみつけてくれたもの。なんて、うつくしい……。 蓋をとると、なかはこんなです。ふと、友人も同じものを持っているのかしら、と考えています。 ピーマンを炒め煮にして、器にそっと入れました。友人のところにある同じ器のなかに、これが届くといいのになあ。 山本ふみこさんのうふふ日記 | コメント (39) この季節、ドクダミの花がうつくしいです。この花を見ると、滋養ということばを思いだします。いろいろの経験は、すべて人生の滋養になる、とおしえてくれているような。, 2015年6月 2日 (火) 日記 | 固定リンク 2007年〜2012年 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、女優・実業家・社会事業家。 兵庫県 神戸市 長田区出身。 本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。 | コメント (40) 東京都武蔵野市在住。 | コメント (36) | コメント (34) | コメント (29) 『朝ごはんからはじまる』『まないた手帖』(ともに毎日新聞社)『おとな時間の、つくりかた』(PHP文庫)『暮らしと台所の歳時記――旬の野菜で感じる七十二候』(PHP研究所)『こぎれい、こざっぱり』『台所から子どもたちへ』(ともにオレンジページ)『家のしごと』(ミシマ社)ほか、著書多数。, 2012年〜2014年 10月末、武蔵野市教育委員の任期満了。 2期8年の務めを終える。 なんという8年間だったことだろう。  あたらしい「生き方」を、わたしは確かに与えられた。 そのことに尽きるように思う。 だとすれば、この先のわたしの行動に、わたしの思考に、わたしの夢のすべてに、それは関わってくるはずだから、ここであわてて総括しなくともよいように思われる。 いま、残したいことがあるとすれば、学校の教職員の皆さんへの、小声での伝言であろうか。 皆さん、どうかお気楽に。 こんなのはいかにも不謹慎であり、教育委員の立場では決して口にできなかった台詞だ。それでも、いま、どうしても、このことを伝えたがる自らを抑えきれずにいる。 8年を通して、驚くことは数数あったが……、なかでも「学校において、えこひいきはあってはならない」というのが、わたしにはいちばんの驚きであった。 そも、わたしの生業(なりわい)などは、読者からえこひいきしてもらってやっとのことで成り立とうというものである。なんとかえこひいきしてもらえるようにあの手この手で策をめぐらし、気をまわしながら仕事をしている、と云っても過言ではない。 軽口を叩きあったり、情けないことを打ち明けあうつきあいになったせんせい方も少なくはないが、それでも彼女彼らはどこまでも「えこひいきはあってはならない」という壁を、決して崩さずに立った。 このひとたちにはかなわない……、と思いながら過ごした日日は、こうして構築されたのであった。 学校現場には、いろいろの苦心、苦労がある。 しかしどんな苦心、どんな苦労も報われているとはいえず、うまく機能しているときには「あたりまえ」のように受けとめられ、ともすると「誤解」されて踏みにじられる。 そんな現場の教職員に対して、わたしはもっともつよく惹きつけられていた。 なぜなら、その存在のぬくもりが、その存在のつよさが、その存在の達成感が、児童生徒たちに直接降り注がれることを知っていたからである。 ねえ、せんせい方、いまよりすこおし、気を楽に。 一度でも、こう云えたなら、よかった。 気を楽に。 ……気楽ということ? そうなのだが、それはのんびりとはちがう。のんきともちがう。 張りつめずにはいられない存在に向かって、素のあなたをもっともっと信じてほしいと訴えたい気持ちだ。 どうかお気楽に。 いまより少しでも、お気楽に。 武蔵野市の教職員の皆さん、指導課の皆さん、教育委員会の皆さん、どうもありがとうございました。 玄関のシーサーの居場所を変えました。地面に立っていたのを、棚の上に移動させたのです。これは1998年の夏、夫がテレビ番組作りで沖縄に長期滞在したときに、シーサー作家から直接譲り受けてきた、宝物。, 2020年11月10日 (火) 日記 | 固定リンク | コメント (10) Tweet, するべきことを小さな付箋に書いて、パソコンの上部に、ならべて貼りつけている。それが長長と連なって、こちらを見下ろす。「早くおねがい」「もうすぐ〆切」「まだかしら」 記憶力というのに、もともと自信がない上に、最近、2回つづけてゲラ戻し(著者校正をして版元に戻す)と、請求書の送りを忘れた。「あのう……」 とすまなそうな催促のメールをもらって、ギャッと叫び、あわてて約束のものを送ったのだった。 そんなわけで、以前よりも「するべきこと」の内容が、ごく細かいこと、ルーティーンにまで及ぶようになっている。 付箋の連なりは、きょう1日でみるなら、1枚はずして、3枚貼りつけている。つまり、昨日より2枚付箋は増えているのだ。まあ、うっかりゲラ戻しと請求書の送りを忘れるようなわたしだから、書いて貼りつけておかなければならないといえば、そういうことになる。 けれどそれが2枚増えようと、ぞろぞろ並んでわたしを威(おど)しにかかろうと、びくびくしてはいけない。 わたしは気をしっかりと保って、云い返す。「早いのばかりが、いいわけじゃありませんよ」「〆切当日に書きますよ。いつもそれで間に合っていますからね」「はい、ただいま」 さいごの、「まだかしら」に対する「はい、ただいま」という返しには、思い出がある。 その昔友人と、喫茶店で紅茶を飲みながら、「もしも自分たちが喫茶店で働くようになったなら……」という空想遊びをしていたときのことだ。「ねえ、お客さんに呼ばれたら、なんて応えるのがいいと思う?」 そう友人が云うので、紅茶のカップを持ち上げたまま、考えこむ。「『少少お待ちください』って、云いたくないなあ」「でしょう? ね、『はい、ただいま』はどう?」「いいね、それにしよう。『はい、ただいま』ね」 さてところで。 付箋の連なりに向かって云い返すのはいいが、あまりこころは晴れず、わたしは少し焦っている。 焦っている。 焦っている。 しかしね、ここまで生きてきて、うっかりしてやり損なったこと、怠けたくなってどんよりすることくらいのことはあったけれども……、〆切を落としたこともなければ、結局やりきれなかったこともなかった(たぶん)じゃないか。 と思いながら椅子の車輪を動かしたら、書棚のなかのフランソワと目が合った。「ね、フランソワ。だからダイジョブだよね。」「ダイジョブ」「ほんとに?」「ダイジョブ、ダイジョブ」 あまりにすましてフランソワが請け合ってくれるものだから、わたしはうれしい。「ダイジョブ?」と不安の顔を向けたとき、間髪入れず「ダイジョブ」と応えてくれる存在というのは、得難い。 それだけで、相当にダイジョブと思えてくるもの。 ありがとうありがとう、ダイジョブ・フランソワ。 これがフランソワ。ダイジョブ・フランソワです。二女が高校時代につくったクマなのですが、ネズミみたいでしょう?ガラス扉のある書棚のなかに坐って、ときどききょろきょろっとしています。これからは、この子に「ダイジョブ?」と聞き、「ダイジョブ」をもらいます。みなさまへ、おたよりの掲載順を変えました。新着が下にきます。どうぞよろしくお願いします。, 2020年10月20日 (火) 日記 | 固定リンク | コメント (62) Tweet, 6月◯日 教育委員会制度が変わって、2か月半が過ぎた。 制度としては教育委員の権限が失われてゆく方向にあるのだと思うが、わが武蔵野市は教育委員会の体制は変わっていない。でもほんとにそうなのかしら……。 そんななか、きょうメールが届いた。 教育委員としても大先輩のTせんせいからのものだった。「私は教育委員長という、行政とも議会とも違う、ひとの気持ちに立った『立場』をなくすことに心底、反対でした」 とある。 少し前に送った、教育委員会の考えが尊重されるように……という決心を綴ったわたしのメールに対する返信(一部)。 Tせんせいのメールを読んで、自分がほんとうは、空中に張った一本の綱の上に立っていることを認めないわけにはいかなくなった。当市の教育委員会の体制が変わっていないと云っても、たとえば市長と教育長が替わったならどうなるだろう。という意味においてでさえ、相当に不安定だからだ。 晴れた日に綱の上を歩きはじめたのはいいが、雨風(あめかぜ)のなか揺れ動く綱の上にわたしは取り残される日もめぐってくるかもしれない。気がつくとわたしは呟いていた。「ひとの気持ち」 Tせんせいから受けとったそのことばを、口のなかでくり返しているのである。 どんな役目を担っても、どんな仕事に就いても、わたしの権限などいつもはかないものだった。しかし、わたしは権限より大事なものを、ぎゅっと握りしめてきたつもりだし、死ぬまでそうしていたいと希っている。 さて、権限よりも大事にしてきたもの。それが、ひとの気持ちだ。 Tせんせいのメールは、こう結ばれている。「どうか、出来ることを十分に楽しまれますように、祈っています。山本さんが楽しむことが、誰かの安らぎにつながるでしょうから」 そうだ。もしも、ひとの気持ちが無視され、ないがしろにされたら、わたしはいつまでも綱の上に取り残されてなんかいないで、飛び降りて、オオカミになって走って行って、できることをしよう。6月◯日 チョウコチャンの家に遊びに行く。 チョウコチャンはわたしの手をとって、家じゅうを案内してくれた。台所の戸棚のなか、地下の倉庫、本棚、家族の作品(紙でつくった監視カメラやドールハウスや、版画。ほかにもたくさん)を見せてくれた。なんと愉快な、愛にあふれた家だろう。 まるで聖堂のよう。部屋の隅(大振りの器がしまってある地下でもいいかな)でまるくなってみたい。まるくなって眠ってしまうかと思いきや……わたしはそっと祈るのだ。ひともわたしも、愛する力を持てるように。目の前の芳(かんば)しくない事ごとさえもまず愛してみるか、と思えるように。, 6月◯日 手の先に色気のようなものが出ている。 その手を、ぬか床にさしこむ。 あはは。カナコチャンに「ぬか床を分けてください」と頼まれてから、ずっとこんな調子だ。 このたびぬか漬け生活を開始しようとしているカナコチャンには、炒りぬかで床をつくっておいてもらうことにした。そこへうちのをひと握り混ぜるという計画。 つまりわたしは「ひと握り」に色気を出している。カナコチャンの家のぬか床にいい具合に混ざろうと、色気づいているのである。6月◯日 夕方、ゼラニウムの苗を買いに行く。 通りに面したアイビーの生け垣の根元の、レンガのプランターに、ずらりとゼラニウムを植えこむことを思いついた。みどりの蔦(つた)とゼラニウムの紅い花。こんなことを思いついて実行に移すのは、家事でも趣味でもないわ。旅そのもの。 帰ってシチュウをつくるあいだ、夫が土の準備をしてくれる。植えこみは、明日。 植えこまれるのを待っているゼラニウム。はるかな場所に運んでくれる、紅い同行の友よ。, 2015年6月16日 (火) 日記 | 固定リンク 著書 『元気がでる美味しいごはん』晶文社 1994 「元気がでるふだんのごはん」講談社文庫 山本 ふみこ(やまもと ふみこ、本名・山本 富美子、1958年 11月26日 - )は、日本の随筆家。 北海道 小樽市出身 。 自由学園最高学部卒。出版者勤務をへて文筆家。武蔵野市教育委員会委員。. Tweet, 日曜日の朝だった。 サンポサンポという声がする。 サンポが散歩だとわかるまでに、10秒くらいかかった。「ね、午前中、散歩行こうよ」 前の日の夕方、ひとり暮らしをしている長女がやってきて、泊まった。このひとは、ときどき「いまから行っていい?」と電話してくる。話したいことがたまるのだろうか、来るなり話しはじめる。「散歩、行こうか」 と応えながら、しようと思っていたあれやこれやを押しのける。予定を押しのけるのには、勇気が要るけれど、そうしてしまえばたいしたことはない。予定した作業は一向に捗(はかど)らないのに、しがみついているだけで何となく安心する。そんなことが少なくはないから。「小金井公園まで歩きますか」「そうしようそうしよう」 身仕度ののち、朝ごはんも食べずに、ならんで運動靴を履く。「ちょっと聞いてもらってもいいかな」 おやおや、わたしときたら。聞き役にまわるつもりが、先に口火を切っている。聞いてもらいたいことがたまっていたのは、わたしのほうだったか。斯く斯くしかじかとやる。「危ないとこだったね。お母ピー、よく気がついたね。気がついて動きだしたんなら、最後までやらないと」 このひとはこんな場面では、わたしのことをお母さん、ではなくお母ピーと呼ぶ。そしてそうだ、わたしはこれを云われたかったのよ。わたしのすることは、ときどき腰砕けになる。粘りづよさのようなものが、ないというか。「そうね、そうだね。人任せにしないで、いや、人任せを混ぜながら、ずっとそこに居つづける。きっとそうする」 小金井公園につづく遊歩道の上。 眠たそうな男の子が犬を散歩させている。細いタイヤの自転車がひとを乗せて行き過ぎる。頭のてっぺんから足の先まで、すべてを衣類で包んだサングラスの女(ひと)、日焼けを怖れているのか、逃亡中か。 午前10時の小金井公園には、思いがけないほどひとがいる。お腹がすいた。立ちならんだ出店で、長女は鶏の照り焼きと野菜を巻いたクレープ520円を、わたしはアメリカンドッグ220円を買う。箸に刺したソーセージにパンケーキの衣(ころも)をつけて揚げてあるアメリカンドッグに、わたしはつい惹かれる。年に二度は食べる。食べるたび、ああ、そうだった衣は甘いし脂っこいしとちょっとがっかりするのだが、そのがっかりにも惹かれているらしい。辛子をたっぷりつけて噛みつく。 小さなスプーンおばさんを和風にしたようなひとから、焼き団子3本350円を買う。海苔が巻いてある。 公園内をぐるぐる歩き、みどりを浴びる。ひとのまばらな、梅の木の下のベンチに坐って、焼き団子を食べる。お茶は水筒に詰めてきたジャスミン茶。鳩を追いかけて、女の子が駆けている。怖くないのね、あなたはあんな頃、鳩を怖がったけれどね。どこが怖いの?と訊くと、「脚が赤いとこが怖いーって、泣くの」「いまも、いっぱいいると、怖いよ」 小金井公園からの帰り道は、長女のはなしを聞く。 | コメント (24) 山本ふみこさんのうふふ日記, てんでちがった立場の相手と、別別に雑談をしていたのに、共通の何かがこころのなかに投げこまれたような。何かしら。, 気がつけば「ことば」は近年、「ことば」というだけで持ち上げられ、たいそうスバラシイ存在となっている。わたしは「ことば」なんかはスバラシクない、というはなしをしようとする者ではない。が、厄介な面を持っていることを忘れてはいけないと云いたい。, ことばと向き合う仕事をつづける日日は、そのまま、その不確かさを思い知る年月だった。そして、不確かさを受けとめてもなお、「ことば」を好きでなくなることなどはなかったことこそは、ことばのスバラシサを物語っている。, あっさりひとを傷つけたり、ぐっとひとの気持ちをつかんだり、ことばにはともかく力がある。魔力と云ってもいい。ぐっとつかまれるのはいいが、傷つけるもんか傷つくもんかと思っているのである。用心しているだけで、傷つけないのか、傷つかないのか、ですって? たぶん……ね。少なくとも傷は浅いと思われます。, 驚くようなことば選びをしていることに気づいて恥じ入り、赤面してことばを選び直すこともある。着替えのような直しもあるにはあるけれど、自分の人間性の問われる境界にまで踏みこむ場合もある。, わたしたちがことばを交わしたり、会話したり、雑談したりという場面においては、見直しなんかは無しである。口からするりと出たことばが、意に染まなくとも、相手を傷つけてしまいそうだと気がついても後の祭り。もう、口には戻せない。いまのことばは、まちがいです。云い直します。なんてことを、たまにわたしは云ったりするが、それでも、一度出て行ったことばは、本当の意味では取り返しがつかない。, わたしはどうしてあんなことを云ってしまったのだろう、とか、あのひとからのあれはひどい云われ様(よう)だ、ということがあったとしても、咄嗟(とっさ)のことば選びで、ああ云うよりほかなかったのだなあと考えよう。受けとめる「ことば」、みずから放つ「ことば」に傷つく前に。, 「ひとりで家に閉じこもったりしないで、友だちをつくってください。若いひとでもお年寄りでも」, 本のエッセイを書いた。広告の意味合いがあったけれど、「ほんとの感想しか書かないぞ」と誓って、試写を観る。, 登場する人物ひとりひとりにリアリティがある。配役が的確ということになるのだろう。静かな、そして濃厚な, いろんなかたち、いろんな大きさの石がひとつひとつ積まれてゆくように、夫婦のあたらしい時間はかたちを成してゆく。けれど、それは長くつづかなかった。数年前から患っていた心臓病によって、良子がこの世から旅立ってしまったのだ。, そう、冒頭の妻からの手紙を夫は、この世に残された悲観のなかで受けとったのだ(生前綴られた手紙が幾通も、大事なモノのなかにひそんで、みつけ出されるそのときを待っている)。, 手紙がこの世とあの世に隔てられた夫婦のあいだをつなぐのである。そうして、それは光を放って、周囲をも照らす。, この世にあって、あとどのくらい便りができるかしら。友だちや、娘たちや、師や、仕事仲間への手紙。夫への置き手紙も、そのうちかもしれない。, 「ユウコチャン、(手紙は)長くても短くてもいいことにしよう。書きかけもいいことにしない?」, 制度としては教育委員の権限が失われてゆく方向にあるのだと思うが、わが武蔵野市は教育委員会の体制は変わっていない。でもほんとにそうなのかしら……。, 「私は教育委員長という、行政とも議会とも違う、ひとの気持ちに立った『立場』をなくすことに心底、反対でした」, 少し前に送った、教育委員会の考えが尊重されるように……という決心を綴ったわたしのメールに対する返信(一部)。, せんせいのメールを読んで、自分がほんとうは、空中に張った一本の綱の上に立っていることを認めないわけにはいかなくなった。当市の教育委員会の体制が変わっていないと云っても、たとえば市長と教育長が替わったならどうなるだろう。という意味においてでさえ、相当に不安定だからだ。, 晴れた日に綱の上を歩きはじめたのはいいが、雨風(あめかぜ)のなか揺れ動く綱の上にわたしは取り残される日もめぐってくるかもしれない。気がつくとわたしは呟いていた。, どんな役目を担っても、どんな仕事に就いても、わたしの権限などいつもはかないものだった。しかし、わたしは権限より大事なものを、ぎゅっと握りしめてきたつもりだし、死ぬまでそうしていたいと希っている。, 「どうか、出来ることを十分に楽しまれますように、祈っています。山本さんが楽しむことが、誰かの安らぎにつながるでしょうから」, そうだ。もしも、ひとの気持ちが無視され、ないがしろにされたら、わたしはいつまでも綱の上に取り残されてなんかいないで、飛び降りて、オオカミになって走って行って、できることをしよう。, チョウコチャンはわたしの手をとって、家じゅうを案内してくれた。台所の戸棚のなか、地下の倉庫、本棚、家族の作品(紙でつくった監視カメラやドールハウスや、版画。ほかにもたくさん)を見せてくれた。なんと愉快な、愛にあふれた家だろう。, まるで聖堂のよう。部屋の隅(大振りの器がしまってある地下でもいいかな)でまるくなってみたい。まるくなって眠ってしまうかと思いきや……わたしはそっと祈るのだ。ひともわたしも、愛する力を持てるように。目の前の芳(かんば)しくない事ごとさえもまず愛してみるか、と思えるように。, あはは。カナコチャンに「ぬか床を分けてください」と頼まれてから、ずっとこんな調子だ。, つまりわたしは「ひと握り」に色気を出している。カナコチャンの家のぬか床にいい具合に混ざろうと、色気づいているのである。, 通りに面したアイビーの生け垣の根元の、レンガのプランターに、ずらりとゼラニウムを植えこむことを思いついた。みどりの蔦(つた)とゼラニウムの紅い花。こんなことを思いついて実行に移すのは、家事でも趣味でもないわ。旅そのもの。, 初めてのときには、かすかにあたふたしたけれど、それが愉快方面のものなのか、不愉快方面のものなのか、たしかめることもしなかった。それはたぶん、不意をつかれて、受けとった「テンネン」なる音に漢字を当てはめ損なったからでもある。, クンに「テンネン」と決めつけられた。彼は高校生で、わたしのほうを見て、「山本さんて、テンネンですね」と云ったのだ。検証の機会到来、とわたしは思った。, クン、いまテンネンって云ったね。それは何なの? 当てはめる漢字は『天然』よね。それは何なの? ……天然果汁, 「天然ボケとか、天然キャラとか。一部、そのひとの勘違いとか非常識の要素も含まれているかな。『天然』を天然果汁, %と思っちゃうところとかです。だけどそれにしたって、場を和ませるような類いのものなんです。愛すべき天然キャラ」, 初めて天然、とやられたとき、わたしをあたふたさせたものはこれだったのね。ボケ。わたし、ボケてるんだわ。, そう思ったら、何だかほっとしてしまった。人生の道の上で張りつめることも、凍りつくことも、頑なになることもあった。行きがかりで、悲壮感を抱くことすらあって、わたしはそれを抱いたまま何かを探してさすらってもきたけれど、天然ボケであったおかげで、いつしか楽観に転じることができたのかもしれない。, と応えながら、しようと思っていたあれやこれやを押しのける。予定を押しのけるのには、勇気が要るけれど、そうしてしまえばたいしたことはない。予定した作業は一向に捗(はかど)らないのに、しがみついているだけで何となく安心する。そんなことが少なくはないから。, おやおや、わたしときたら。聞き役にまわるつもりが、先に口火を切っている。聞いてもらいたいことがたまっていたのは、わたしのほうだったか。斯く斯くしかじかとやる。, 「危ないとこだったね。お母ピー、よく気がついたね。気がついて動きだしたんなら、最後までやらないと」, このひとはこんな場面では、わたしのことをお母さん、ではなくお母ピーと呼ぶ。そしてそうだ、わたしはこれを云われたかったのよ。わたしのすることは、ときどき腰砕けになる。粘りづよさのようなものが、ないというか。, 「そうね、そうだね。人任せにしないで、いや、人任せを混ぜながら、ずっとそこに居つづける。きっとそうする」, 眠たそうな男の子が犬を散歩させている。細いタイヤの自転車がひとを乗せて行き過ぎる。頭のてっぺんから足の先まで、すべてを衣類で包んだサングラスの女(ひと)、日焼けを怖れているのか、逃亡中か。, 時の小金井公園には、思いがけないほどひとがいる。お腹がすいた。立ちならんだ出店で、長女は鶏の照り焼きと野菜を巻いたクレープ, 円を買う。箸に刺したソーセージにパンケーキの衣(ころも)をつけて揚げてあるアメリカンドッグに、わたしはつい惹かれる。年に二度は食べる。食べるたび、ああ、そうだった衣は甘いし脂っこいしとちょっとがっかりするのだが、そのがっかりにも惹かれているらしい。辛子をたっぷりつけて噛みつく。, 公園内をぐるぐる歩き、みどりを浴びる。ひとのまばらな、梅の木の下のベンチに坐って、焼き団子を食べる。お茶は水筒に詰めてきたジャスミン茶。鳩を追いかけて、女の子が駆けている。怖くないのね、あなたはあんな頃、鳩を怖がったけれどね。どこが怖いの?と訊くと、「脚が赤いとこが怖いーって、泣くの」.