日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。 世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。 麒麟がくるを観ていても戦乱の世の中なのにヒロインは普通にやってますよね。あれ、大丈夫なんでしょうか?少なくとも平安時代は「女性のみで旅をするなら体を差し出すのもしょうがない風潮だった」と網野善彦の「日本の歴史をよみなおす 市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。, その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。, 商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。, 戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。, 藤木久志は著書『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)などで、戦国大名の英雄的な活躍の影で繰り広げられた雑兵たちの「食うための戦争」について論じている。, 武士たちのぶつかり合いによる戦闘という戦場の一般的なイメージの裏で、雑兵たちは戦闘以上に「乱取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していた。放火や刈田による略奪、そして一般民衆や農民を奴隷として拉致するという、現在であれば戦争犯罪にあたる行為が、戦国時代の戦場では(すくなくとも行っている側からは)認められていた。農民から徴用されたばかりの足軽にとって、手柄をあげない限り報酬は出ないが名のある武将を討ち取るのは難しく、また、大名の方でも彼らの士気が下がらないようにしなければならないため、兵たちの乱取りを黙認あるいは推奨した。藤木によれば、越後の上杉謙信(長尾景虎)は他国出兵を積極的に行っているが、これは短期(北信濃)・長期(関東)に関わらず冬期に行われており、「出稼ぎ」と「口減らし」の性格を持つものだという。, 奴隷狩りと略奪は各地で行われた記録が残り、キリスト教宣教師を通じて海外へ売り払われた人々もいた。こうした背景から豊臣秀吉は1587年(天正15年)にバテレン追放令を発布してキリスト教を禁じている。, なお戦地での略奪以外の刈田は対立する大名領の収穫量を減らし、経済力を奪う目的の謀略という性格が強かった。, 戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。, 特に、千利休による茶の湯の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。, 戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村周継、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『鷹図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。, 文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁や細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実や古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。, 公家社会でも近衛家のように足利将軍家と婚姻を結び、地方の大名・武士と朝廷との間を取り持つことで社会的な地位をある程度まで保った層から家領を武士に奪われて生活に困窮し地方に疎開するだけの人脈も持てずに没落した層まで様々であった。永正16年(1519年)に発生した越水城の戦いを巡る当時の近衛尚通の日記『後法成寺関白記』と鷲尾隆康の日記『二水記』を比較すると両者の違いが明らかとなる。近衛尚通の元には合戦当事者を含めた武将やその家臣、僧侶など様々な身分の相手から情報が寄せられて合戦の事情を把握していることが分るのに対して、鷲尾隆康は公家社会の風説を聞いて「恐怖」するのみであったことが知ることが出来る。後者のような公家は武士層など他の階層とのつながりも持つことなく、やがて歴史の中に消えていくことになる(実際に鷲尾家は隆康の代で断絶して江戸時代初期になってようやく再興されている)[84]。, 武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。, 宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。, 日本は飛鳥時代の仏教伝来より、神仏習合に基づいた神や仏への信仰が篤かったが、戦国時代には、さらに天道思想が戦国武将に広がり、「天運」を司るものと認識され、仏教・儒教と神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透されるようになった[85]。, 戦国時代初期、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」文明9年(1477年)12月10日条に、「就中、天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては、近江・美濃・尾張・遠江・三河・飛騨・能登・加賀・越前・大和・河内、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州・摂州・越中・和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記し、現在の中国、四国、近畿、東海、北陸を以て日本国のことごとくであるとしている[86]。, 一方、戦国時代末の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国・西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)を合わせれば本朝は滞りない状態であるとしている[87]。, 豊臣政権期には国土認識について変化が見られた。ルイス・フロイスは、九州平定の前年の天正14年(1586年)10月17日付書簡では豊臣秀吉のことを「ほぼ全国の君主」としていた。しかし九州平定の翌年、天正16年(1588年)には秀吉を「日本全国の絶対君主」「日本全国の国王」と呼ぶようになっており、豊臣政権期には九州が日本国の一部と認識されていたことがわかる[88]。, 「日本の近世城郭は16世紀第4四半期に原型が成立し、17世紀第1四半期にもっとも複雑化した。16世紀第3四半期までは日本の拠点城郭(戦国期拠点城郭)はそれぞれの地域性を色濃く備えた。そうした戦国期拠点城郭のプランに表れた地域性は、築城主体であった権力構造の反映であった。そうした地域性は巨視的に見れば城郭構造の求心・階層構造を指向したものと、並立的な城郭構造を指向したものに区分される。」, 「根小屋」という用語について香川元太郎は、城の前に形成された家臣屋敷の集合集落としている, 山田康弘 「戦国期足利将軍存続の諸要因」 『日本史研究』672 日本史研究会、2018年8月、15頁。, 天野忠幸他編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年10月、133‐134頁, 馬部隆弘「永禄9年の畿内和平と信長の上洛」『史敏』4号、史敏刊行会、2007年4月、67頁, 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」『戦国史研究』74号、 吉川弘文館、2017年、4頁, 『上杉本洛中洛外図屏風』の注文時期とその動機に関するノート ─近年の戦国期畿内政治史研究の成果に学ぶ─, http://premium.yomiuri.co.jp/pc/?seq=02#!/news_20161108-118-OYTPT50363/list_NEWS%255fMAIN_6, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=戦国時代_(日本)&oldid=79959207. . 江戸時代の旅人は1日で何キロくらい歩いたの? 一般的に江戸を立って京に向かう場合、最初の宿泊地となったのが戸塚宿、あるいはその手前の保土ヶ谷宿でした。 日本橋から保土ヶ谷宿までが八里九町(約33km)、戸塚宿までは十里半(約42km)です。 お客様の許可なしに外部サービスに投稿することはございませんのでご安心ください。, 【歴史・戦国時代の日本人口の矛盾】戦国時代の歴史教科書の総人口がおかしいことに気付いた。 戦国時代の, 中国の春秋戦国時代の国(始皇帝の秦など)と日本の戦国時代の国(織田家が基盤にした尾張など)では、国の, 戦国時代に、織田や豊臣の時代は一代で、終わりましたが徳川の時代は何年続いたのですか? ●商品やサービスを紹介いたします記事の内容は、必ずしもそれらの効能・効果を保証するものではございません。. Oyama Shrine.Toshiie Maeda public image. 戦国時代、男性の鎧兜は華やかで、荘厳なものがたくさん伝わってますが、女性の衣装や髪型はいまいち。すぐに思い出せない…なんでぇ…。となったコトありませんか?そんな方のもやもやを少しでも解消できればいいなぁ、と思いまして紹介させて頂きます!, 戦国時代の区切りはたくさんありますが、ここでは一般的な応仁の乱(1467年)~織田信長が上洛した(1568年)おおよそ100年間を戦国時代だとして、説明させていただきます。, 「小袖」というのは袖の開きが狭いことからついた名前です。この「小袖」に対して袖丈一杯まで開いているものを「大袖(おおそで)」と言います。「大袖」は今の振袖に近いものです。, 小袖は、袖が小さいのが最大の特徴なんですが、その小袖の中でも目立って華やかなのが、桃山小袖です。, 安土桃山時代に流行したものなんですが、紅を多く使った派手な柄、色使いのものが多いです。キリシタン文化や南蛮貿易に影響をうけています。, この華やかな小袖ですが、刺繍(ししゅう)を全体にほどこし、辻が花染(つじがはなぞめ)を多く使っているのが最大の特徴です。, 手間暇のかかったこの衣装、正確な重さがわかりませんが、現代の振袖がおおよそ2㎏。1反重さがおおよそ675g。1反で1枚の着物が出来上がります。, 現代の振袖と帯、長襦袢で2㎏。いまの洋服の4倍以上、振袖の1.5倍、それに髪の毛の重量が……!!!姫君、体力半端ない!!!, ウインドーショッピングで辻が花の着物を眺めていたら、値段のゼロの数を数えるのが嫌になったことがあります(笑)。, そんなものを日常的に身にまとっているお姫様の気分、想像…。できませんでした。ただ私が着たのならきっと静止して息をするのも気を遣い、重さで肩こりを発症します!確実に!!, 辻が花染は室町時代から、安土桃山時代にかけて出来た、絞り染めの技法で、当時染物と言えば辻が花、というくらいに一般的なものでした。, きらびやかな小袖は女性だけでなく、男性も着ていました。特に徳川家康はきらびやかなものを、好んでいたそうです。裃(かみしも)の下に来ている着物は、カラフルなものが多いです。豊臣秀吉は陣羽織を辻が花で仕立てたました。, きらびやかなこの小袖、女性用のものがたくさん残っていれば、姫君に思いをはせることも、もっと沢山できただろうとおもえて、少し残念です。, 練貫(ねりぬき)というものなのでですが、言葉だけだとすごくおいしそう(笑)ですが、織り方の一種で、縦糸が生糸(きいと・糸を作るときに加工していない絹糸)横糸が練り糸(加工しやわらかく仕上げた絹糸)なので、縦糸が弱いのだそうです。, この小袖が流行した理由の一つに、下剋上や治安の低下など、袖が小さく活動的な表着(うわぎ・服装のいちばん上に重ねて着る衣服)として、武家の夫人の正装に採用されるようになりました。, このころはすっかり小袖は重ね着が、定番となっていました。ただ帯は締めず羽織ることを打掛、夏の祝着の際には、打掛を腰に巻く腰巻と呼びます。, 打掛の裾には「ふき」と呼ばれて、綿を入れ厚みを出した部分がありますが、寒さ防止だと、ずっと思っていたのですが、実は裾に厚みと重みをつけることで、歩くときに着物が足に、まとわりつくのを防止しする効果と、遠くから見た時に、裾の広がりで身長を高く、すらりと見せる効果もあったようです。, 「ふき」という名前、冷静に考えるともしかしたら、廊下やらお座敷やらを拭き掃除する様に似てるから「ふき」ってなんたんじゃないかなぁ。違ってほしいと思います(笑), 時代が落ち着き、逃げることを考えなくてもよくなると、戦国時代も終わったんだと思えますね。平和になるとファッションも華やかになりますしね。, 武士の礼装の裃(かみしも)でも小袖を表にだす着方が、通例となり小袖は上着に昇格しました。それまでは下着扱い。今の下着は肌着と言います。, 身丈(みたけ・衣服のえりからすそまでの、背筋の長さ)はおはしょりが(浴衣など着物を着た時に、お腹のあたりに着物が余って、帯の下に出ている部分です)なく、つい丈(身の丈と同じに布を裁って、着物をしたてること)になってます。, 今はおしょりがあるので着回ししたり、多少ふくよかになっても(笑)何とかなりますが、桃山小袖は体系に合わせているので、体形維持も課題だったのでしょうか?, つい丈で仕立てると、衿(えり)を後ろの首に当てた状態で着用できたので、今の様に衿をぬかなくても(衿をぬく・首の後ろの部分に、拳1つ分入るくらい衿を開けること)着れるというのがいいです。剣道の道着ように、ぴっちり着たい人はこちらのほうがいいかもしれませんね。, 後ろで束ねているだけの、「元結掛け垂髪(もっといかけすいはつ)」 であることがほとんどです。, 家臣の奥さんなどは、束ねているだけですが、身分の高い大名の妻や娘は横の髪を垂らした感じの髪型でした。, サイドの髪を緩やかにたわませて、肩にかけただけの髪型は、家事などの雑事を自分でこなす必要のない、証拠のようでもありますね。, でも髪が長いと手入れが大変です。髪を洗うのも月1,2回。洗った次の日は全く動けないという記述も読みました。今の様にドライヤーなんてないのに、長い長い髪を維持するのは、やはり身分が高くなければ無理だということなのでしょう。, 話はそれますが、鬢付け油(びんつけあぶら)今はお相撲さんの髷(まげ)を結う時に使う油なのですがかなり独特のにおいがします。これも洗髪の少なさの不快さを防ぐ工夫かもしれませんね。, 姫君の髪型に関しては平安の貴族の女性の髪型とあまり変わりがないように、思われますが、京都がファッションの最新だったのでしょう。, 戦国時代のお姫さまの、装いは一見華やかですがその重さを表情や所作に出すことなく優雅に過ごすこと、それは気力と体力がないと無理なんだと思います。, いざとなれば夫に代わり城を切り盛りしたり、逃げたりそんな状況にも機敏に動けるような装い…でもやっぱり女性なので美しい装い。綺麗なだけではいられない姫様たちに脱帽です。.