スポンサーリンク 道三の正室・小見の方(帰蝶の母親)が、明智光秀の叔母(父・明智光綱や叔父・明智光安の妹)だったと『明智軍記』では言っているのです。, なお、帰蝶とは、沢尻エリカさんが演じる予定だった織田信長の正妻です。 ところが同じく義龍の家臣だった西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(良通)が、斎藤家から離反して織田家に従属。利三はこれに従い、その後は稲葉氏の家臣となります。, 一鉄の家臣となった利三ですが、元亀元年(1570)以降は光秀の配下になったようです。この鞍替えについては、利三が一鉄といさかいを起こして袂を分かち、親戚関係にあった光秀をたよったからともいわれています。 斎藤道三と明智光秀の関係 . 同事件を強行した明智光秀は、織田信長に出会って以来のことは割とよく知られていますが、それ以前の事績となるとサッパリです。, なぜなら明智軍記が成立したのは、本能寺の変から100年以上が経過した1693~1702年頃の江戸時代であり、しかも事実を記録した書物ではなく軍記物語、いわば小説なのです。, あるいは、話のベースとなる事実確認も曖昧になるところがあり、学術的な観点からは見放されてしまうような一面があります。, それでも『明智軍記』は100%の創作とも言い難く、何かしらの事実エッセンスも含まれていて、例えば大河ドラマ『麒麟がくる』においても同書を避けて制作することは難しいでしょう。, 原書の65話に合わせ、全65回の連載で if ( notice ) 斎藤 道三 (さいとう どうさん)/ 斎藤 利政(さいとう としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。, 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により美濃の蝮(マムシ)という綽名でも知られる。, 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍[注釈 1]、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)[注釈 2]、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利[注釈 3] は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)[注釈 4] とも、または道三が若い頃の子であるともされる[注釈 5]。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。, ※以下は通説としてかつて知られていた一代記としての道三像で叙述し、新史料による道三の来歴は後述する。, 明応3年(1494年)に山城乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。, その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種の人目を引くための行為を見せるというもので、美濃で評判になっていた。行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという[注釈 6]。 斎藤 道三 (さいとう どうさん)/ 斎藤 利政(さいとう としまさ)は、戦国時代の武将。 美濃の戦国大名。 道三流斎藤氏初代当主。. 事実のアヤフヤな軍記物として軽んじられていたのが、実は、現代の新説と同じになっている。, 親子2代というのが「道三の父&道三」ではなく「道三&義龍」と記されているのです。 「明智家の嫡流で、特に優秀で、凡人ではない」 【明智光秀と織田信長】二人の出会いと関係性とは?, 【本能寺の跡に明智風呂!】ちょっとマニアックな明智光秀ゆかりの地へ(その1・京都編). 大河ドラマ「麒麟が来る」でも話題の明智光秀。明智光秀と言えば、本能寺の変で謀反を起こし織田信長を討ったことでも有名ですね。実は、明智光秀は非常に謎の多い人物なんです。今回は、明智光秀の家系図をもとに、光秀の謎、家族構成、子孫(末裔)についてまとめてみました。光秀は一体どんな人物だったのか?家系図からみていきましょう。, 明智光秀は、出自が記載されている信憑性の高い資料が非常に乏しく、はっきりとしていません。織田信長と出会う少し前から、本能寺の変で謀反を起こし山崎の戦いで討たれるまでの資料でしか、光秀がどんな生活を送っていたのかを知ることができないんです。また、子孫についてもはっきりと記述されている資料が非常に乏しいんです。光秀の出自について記載してある資料では、, など様々な記述があり、最も有力なのは、美濃の土岐氏の分家だった明智の出身だという説ですが、今だにはっきりとしたことはわかっていないのが現状です。, 光秀のことを語る上で欠かせないのが、江戸時代中期(1688〜1702年)頃に書かれたと言われている「明智軍記あけちぐんき」です。この明智軍記は、光秀の出自こそ書かれていないものの、美濃の脱出(斎藤道三さいとうどうさんが息子の義龍よしたつに敗れたのち、義龍に責められて美濃を追われた)から、本能寺の変での謀反、そして山崎の戦いで敗れたのち、落ち武者に討たれたところまでを描いた全10巻で描かれています。著者は不明ですが、同書によってしか知り得ない情報も記載してあるところから、その信憑性は全てが創作物とは言えない、いわば光秀を知るためには欠かせない軍記物です。, しかし、光秀に関する資料は非常に乏しく、資料ごとに記述も違うことが多いため事実関係が確認できない子供たちも系図には記載されています。つまり、光秀のことは謎に包まれた部分が非常に多いんです。光秀の子供で最も有名なのは細川ガラシャ(玉)です。ガラシャは光秀の三女で、信長の構想により、細川藤孝の嫡男忠興ただおきと婚姻しています。忠興は、本能寺の変の後は秀吉に仕え、その後は徳川家康に仕え、その息子は初代熊本藩藩主「細川忠利ほそかわただとし」です。その後、7代藩主「細川治年ほそかわはるとし」の代まで、明智光秀の血を引く末裔は熊本藩藩主として君臨したのです。実に150年にも渡ります。, 光秀は本能寺の変で仕えていた信長を討ち、その後山崎の戦いで秀吉に敗れました。戦国時代ですから、謀反を起こした一族全員反逆者として吊るされることもあり得たでしょうが、光秀の血統は途絶えることなく現代にも続いています。, ラジオやDJ、声優として活躍しているクリス・ペプラーさん。クリスさんの母方の祖母は、光秀の実子説がある「土岐頼勝ときよりかつ」の末裔だと言われています。もし、頼勝が光秀と血縁関係だったという説が本当であれば、ドイツ系アメリカ人のハーフであるクリスさんは光秀の末裔だということになります。, 光秀の血脈は、光秀の没後400年以上たった現代でも続いています。私たちに馴染みのある、著名な人を紹介します。, 今回は、明智光秀の家系図、子孫についてまとめてきました。この記事の内容を簡単にまとめると、, 明智光秀は本能寺の変で謀反を起こしたことで、日本史上でも有名な人物です。光秀の子や末裔たちは、明智とは名乗らず、名を変えて現代まで生き延びてきたという話もあります。それでも、現代にまで末裔が続いてるなんて、まさに歴史的発見が多いですね。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。, Histonary - History dictionary - 斎藤龍興とあったら→斎藤義龍, 斎藤氏は「道三・義龍・龍興」の三代が通説でしたが、今では「道三父・道三・義龍・龍興」四代の新説が主流になってきており、さらに明智軍記の「一代ズレ表記」があるということです。, 大河ドラマ『麒麟がくる』では、本木雅弘さんが斎藤道三役です。 金欠で岐阜と福井しか行ってないし。滋賀と京都へ行きたい (T_T) 司馬遼太郎『国盗り物語』や、同作を映像化した1973年NHK大河ドラマ『国盗り物語』で知られています。, 斎藤利政(道三) 【明智光秀の娘 】 細川ガラシャの死がもたらした影響とは? 物語開始当初、主人公・明智光秀が仕えている斎藤利政(道三)は美濃の「守護代」という立場ですが、実質的には美濃を牛耳る立場にあります。 もともと美濃は守護を務める名門・土岐家が治めていました。 三谷脚本作品に多く出演し、特に『古畑任三郎』の今泉慎太郎役で人気を得る。 北条氏 1285年~ 「美濃国の領主であった土岐氏と、土岐氏に替わって美濃国の領主になった斎藤氏の事。おまけとして、明智光秀の叔父の, 『土岐累代記』 国房、土岐郡に住し、是れより、その子・左衛門尉光国、その子・出羽守光信、その子・伊賀守光基まで4代、世々濃州に住すといえども、美濃守には任ぜられず。後鳥羽院の御宇、元暦、文治の頃、源, 一、彼・斎治身上之儀、祖父・新左衛門尉は、京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、長井弥二郎の所へ罷り出で、濃州錯乱の砌(みぎり)、心はしをも仕り候て、次第にひいて候て、長井同名になり、又、父・左近, 【意訳】斎治(斎藤治部大輔義龍)の身の上についてであるが、①斎藤義龍の祖父・新左衛門尉は、元は京都妙覚寺の塔頭・法花坊の坊主で、還俗し、西村家の名跡を継いで西村勘九郎正利と名乗っていた人物である。美濃国へ来て、長井弥二郎に仕え、「濃州錯乱」(美濃国内乱)の時、心の端を掴み、次第に心を引いて頭角を現し、「長井」豊後守と称するようになった。②斎藤義龍の父・長井左近大夫(後の斎藤道三)は、長井家の宗主・長井長弘(その子・景弘?)を討って諸職を奪い取り、美濃守護代・斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで「斎藤」新九郎利政と称するようになった。さらに次郎殿(, 「義龍の臣・明智兵庫助光安入道宗宿は、土岐の庶流・明智下野守頼兼に七代の後胤・十兵衞衞尉光継が次男也」, 【意訳】斎藤義龍(=通説での斎藤道三)の家臣・明智光安(出家して宗宿)は、土岐氏の庶流・明智頼兼から7代後の明智光継の次男である, 今度、龍興、親父・山城守を弑(しい)せられける事を怒つて、明智の館(たち)に引き篭もりけれ, 【意訳】今回、斎藤龍興(通説では斎藤義龍)が、父・斎藤義龍(通説では斎藤道三・明智光安の妹聟)を「長良川の戦い」で討った事に怒り、明智光安は明智屋敷に引き篭もっていた, 【意訳】私(明智光安)は、亡君(斉藤道三)の恩に報いるために打って出て、おそらく討ち死にするであろう。あなた(明智光秀)は、今が死ぬ時ではない。生き延びて、明智家を再興しなさい。それこそが先祖孝行である。その上、あなたは、, 『明智軍記』光秀、理に服し、辞するに処なふして、一族を相伴ひ、涙と共に城を出て、郡上郡を経て、越前穴馬(あなま)と云ふ所を過ぎ、偖(さて)、国々を遍歴し、其の後、越前に留まり、太守・朝倉左衞門督(かみ)義景に属(しょく)して五百貫の地をぞ受納(じゅのう)しける。, 【意訳】明智光秀は、明智光安の言うことが尤もだと思ったので、一族(妻子、光春、光忠)を連れ、泣きながら明智城を抜け出し、美濃国郡上郡白鳥から国境の油坂峠を越えて、越前国穴馬で隠れていた。すると称念寺の薗阿上人に呼ばれて越前国長崎へ移り、妻子を置いて諸国武者修行の後、. そこから二代で美濃を乗っ取ったんですね。, ①斎藤山城守龍基(たつもと)入道道三と、②その子・斎藤山城守義龍(よしたつ)の2代で美濃国を取った。, ③斎藤義龍は、長男・龍興(たつおき)を差し置いて、次男・龍重(たつしげ)、三男・龍定(たつさだ)を可愛がり、家督を譲ろうとした, この辺り、非常に興味深いですよね。 明智光秀は美濃国の明智城(岐阜県可児市)で生まれたとされ、濃姫は美濃国の大名・斎藤道三の娘として同じく美濃に生まれています。 そもそも「濃姫」というのも「美濃国の姫」という意味の通称であり、本名は「帰蝶」だとか「胡蝶」だとか、複数の説があって定かではありません。 ・現代語訳 しかしそんな光秀にも、斎藤利三(としみつ)という忠実な家臣がいました。光秀に忠義を尽くした利三とはどのような人物だったのでしょうか。利三の生まれや、光秀の家臣になった経緯、戦での奮闘などについてご紹介します。, 利三は光秀の家臣になるまでにさまざまな主君に仕えていました。どのような経緯で光秀の重臣となったのでしょうか。, 利三は天文3年(1534)戦国武将・斎藤利賢の次男として誕生しました。斎藤道三とは別の系譜で、美濃斎藤氏の一族出身ではあるものの、その家系については諸説あるようです。 https://note.com/senmi/n/n18f9ab1a6ec1, この記事には「明智城址めぐり」の看板が使われていますが、コースが新しくなったとのことです。 史実の光秀がナゾばかりである以上、大河ドラマ『麒麟がくる』でもこの『明智軍記』を頼りにするしかないでしょう。, が、100%創作というわけではないというのがミソ。 明応3年(1494年)~弘治2年(1556年)4月20日 大内惟信 ~1221年 斎藤義龍とあったら→斎藤道三 ②土岐頼遠 1339年~1342年 ⑪土岐頼芸, ※⑩と⑪の土岐頼武と土岐頼芸の二人が、目まぐるしく入れ替わるところは省略しております, 織田信長視点で見た戦国史の美濃国は、ほぼ「斎藤氏」に集約されますが、それ以前は約200年にわたって土岐氏が美濃国を治めていたのです。, 由緒ある源氏の一派ですから、武力という実力もさることながら、同時に高貴な血が尊ばれた可能性もありそうですね。, なお『明智軍記』では、戦国時代の美濃国守護を「土岐芸頼(のりより)」としていますが、正しくは「土岐頼芸(よりのり)」です。, 斎藤道三は、僧→油売り→武士を経て戦国大名(美濃国領主)になった人物。 Please reload the CAPTCHA. 母は越中蜷川家・蜷川親順の娘といわれていますが、徳川家の正史『徳川実紀』には「斎藤利三は明智光秀の妹の子」とも記載されています。, もともと利三は実兄・石谷頼辰や光秀と同じように幕府の奉公衆でしたが、上京後は摂津国・松山新介に、次いで斎藤義龍に仕えるようになりました。 ・守護職の就任は光衡一代で終わる, ①土岐頼貞 1336年~1339年 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. 天文17年(1548年)~天正元年(1573年)8月14日 義龍は怒り、380余人(一説に800人)が守る明智城を3000余人で攻め落としたのです。, この城攻めは『明智物語』には弘治2年(1556年)8月5日~9月26日とありますが、実際には9月25日~26日の2日間だったそうで。, 明智光安が城から打って出ようとすると、明智光秀も打って出ようとしたので、『明智軍記』には、明智光安が明智光秀の袖を掴み、次のように言って止めたとしています。, 【明智軍記】某(それがし)は、亡君の恩の為めに相ひ果てるべし。御辺は、ただ今、身を捨つるべき処に非(あら)ず。命を全(まっと)ふして、名字を起こし給へ。それこそ先祖の孝行なれ。その上、光秀は、当家、的孫(てきそん)、殊(こと)に、妙絶勇才の仁(ひと)にて、直人(ただびと)とも覚へず候へば、某が息男・弥平次光春、甥の次郎光忠をも偏(ひとへ)に頼み候也。如何様(いかよう)にも撫育(ぶいく)して、家を起こされ候へ, 【意訳】私(明智光安)は、亡君(斉藤道三)の恩に報いるために打って出て、おそらく討ち死にするであろう。あなた(明智光秀)は、今が死ぬ時ではない。生き延びて、明智家を再興しなさい。それこそが先祖孝行である。その上、あなたは、明智家の嫡流で、特に優秀で、凡人ではないようなので、私の息子・光春と甥・光忠を託します。いいように育てて、明智家再興のために役立てて下さい。, 叔父の光安は光秀のことを ありがとうございます。65回・・・続くかしら? ⑥土岐頼益 1395年~1414年 }, では次に「明智家の家系図」と「光秀が城を追われて越前まで行く場面」について見てみましょう。 ... 斎藤道三と明智家には、実は繋がりがあったとされます。 ... 2019/12/14 20:17 Histonaryは、楽しく歴史を学んでいただくためのサイトです。知っていたこと、知らなかったこと、歴史のウソホントを楽しく学んでいただけるような記事を掲載しております。. 3 別名を「神箆城」「国府野城」「土岐氏一日市場館」とも言います。, ちょっとマニアックな内容なので読み飛ばしてくださって大丈夫ですが、以下に『土岐累代記』の該当箇所を掲載しておきますね。 父の代で礎を築いて、本木さんが美濃を乗っ取った――という四代説になるという脚本家さんの話もありました。楽しみですね。, では次に「明智家の家系図」と「光秀が城を追われて越前まで行く場面」について見てみましょう。, 大河ドラマ『麒麟がくる』を念頭に入れて注目するのは明智光安でしょう。 ④土岐康行 1387年~1389年 二人は斎藤と明智で苗字が違うので、全く関係ないのでは?と、思いませんか。 実はこの二人は親族関係にあたります。 天文元年(1532年)斎藤道三は「 小見の方 」を正室に迎えたのですが、この方の父上様は 明智光継 です。 ロケTV , ・【麒麟がくる・第2回】あらすじと感想 本木雅弘(斎藤利政 / 道三)の怪演が光る. 光衡は、オカトトキが咲き乱れる美濃国土岐郡に入って土着して「土岐美濃守光衡」を名乗ると、「オカトトキ」を土岐家の家紋にしました。, 土岐光衡の本拠地は、岐阜県瑞浪市土岐町一日市場にあり、居城の神戸城は、現在、八幡神社になっています。 その後は2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命され、家光の将軍継嗣において功績を残したり大奥をまとめたりと権勢を振るいました。朝廷から賜った「春日局」という称号で広く知られています。, 利三はさまざまな主君に仕えましたが、最期は明智家の重臣としてこの世を去りました。光秀に対しては大きな恩義を感じていたのかもしれません。 .hide-if-no-js {  ×  西村まさ彦さんが演じられる、光秀の叔父ですね。, 「義龍の臣・明智兵庫助光安入道宗宿は、土岐の庶流・明智下野守頼兼に七代の後胤・十兵衞衞尉光継が次男也」 けれども戦国時代になると違ってくる。主人は家人に対してただその主人一人だけへの忠誠を要求する。だから家臣が他から所領を与えられるということはなくなって来た。家臣はただ一人の主人に仕える。それなのに光秀は信長からも義昭からも所領を与えられ、信長も義昭もそれを公認しているのである。これはこのころとしては特種なケースであるといってよいであろう。この特種が認められるところに、光秀の微妙な人間価値を認めないわけには行かないのである。, とあり、”以前は複数の領主に所属するのは当時は特に珍しいことではなかったが、戦国期になって忠誠心を強く求められるようになってからは、武家が同時期に二君に仕えることはなくなっている。しかし明智光秀の場合は実力を認められた特別なケースだ。”と述べられています。, 明智光秀の立場に関して、代表的な事例は、織田信長が足利義昭を奉戴した”永禄11年(1568年)9月の上洛”1年半後の永禄13年(1570年)1月23日付で、織田信長から将軍足利義昭宛てに出された『五カ条の事書(ごかじょうのことがき)』と言う書面があります。, これは、上洛後の翌年永禄12年(1569年)1月5日に将軍足利義昭が三好三人衆などに襲撃された『本国寺合戦』の後、信長は『殿中御掟(でんちゅう おんおきて)』を1月14日付にて制定して幕政に介入していますが、それを遵守しない将軍義昭を厳しく諫めた文面になっています。, この宛先が、『日乗上人』と『明智十兵衛』となっており、朝廷の代理人としての僧侶『朝山日乗』と、幕府側代理人としての『明智光秀』の立場が明確になっていると思われます。これを信長の部下となった光秀とする見方もありますが、ここは、将軍足利義昭を叱責している織田信長の姿勢を、正親町帝と将軍足利義昭に伝えると言う意味合いが強いと思われますので、ここでの光秀の立場は足利義昭側近・幕府の役人でなければいけないようです。, 公家の吉田兼見は四月十四日の日記に、信長の所に若狭・丹波・播磨の衆が多数押しかけて訴訟で混乱した状況になっていると書いている。このような混乱を解消するために、信長方三人と幕府方の光秀が一時的にチームを組んで大量の案件を捌いたと考えられる。・・・。, なお、光秀がこのような立場を務められるのは、信長の『殿中御掟』をみても藤孝の家臣で足軽では無理だ。この時点では義昭直臣の奉公衆に取り立てられていたとみるべきだ。おそらく本圀寺での活躍や前年十一月の連歌会へのデビューが高く評価されたものであろう。, とあり、これは、上洛翌年の永禄12年(1569年)の事で、文中の署名人が4人ですが、信長方三人は羽柴秀吉・丹羽長秀・中川重政の織田家臣の実務担当者で、書状の署名の順位が光秀は最後となっていることから、光秀は織田家臣ではなくて、幕府方役人の立場であることは明白となっているようです。, 尚、引用した文中に「公家の吉田兼見は(永禄)四月十四日の日記に」とありますが、公開されている『兼見卿記』は元亀元年からの記述になります。しかし『公家の山科言継卿の「言継卿記の永禄十二年四月十五日の条」』で、まさにそのとおりの混乱状態が記載してあることが確認出来ますので念の爲。, 大意は、”織田信長公は、元亀2年(1571年)の「叡山焼き討ち」の論功行賞として、志賀郡を明智光秀に与え、光秀は坂本の地に在住した。”位の意味です。, つまり、織田信長は、明智光秀がこの『比叡山焼き討ち』に積極的に働いた褒美として、旧比叡山延暦寺領を含む志賀郡一帯を与えたことが分かります。つまり、この時点ではっきりと光秀は信長の家臣となっていることが判明します。, 十日、乙未、東寺、明智光秀ノ、同寺八幡宮領山城下久世荘ヲ押妨スルヲ停メンコトヲ幕府ニ請フ、, 當寺八幡宮領下久世庄、年中爲御神供料所、等持院殿様御寄附巳來、于今無相違之處、明知十兵衛尉方、彼庄一職爲上意被仰付由被申、年貢諸事物等、至于今無寺納候條、御訴訟申上与存刻、・・・, (引用:『大日本史料 第十編之四 260~261頁 元亀元年四月十日の条』1969年復刻 東京大学史料編纂所), 大意、”元亀元年(1570年)4月10日、東寺、明智光秀の同寺八幡宮領下久世荘の横領を停止させることを幕府に要請する。, 東寺八幡宮領下久世荘は、常に東寺の所領であり、足利尊氏殿より寄進されて以来、今至る迄東寺領であることに変わりはないが、明智光秀が、この下久世荘の管理を足利義昭様より申し付けられたと称して、年貢その他が今に至る迄、東寺に納付されない。それに付き、幕府に訴えるところである。”位の意味です。, ここに、「明智光秀が将軍から東寺領である南山城の下久世荘を所領として頂いた」と述べていることで、この訴えによって、東寺の所領を勝手に足利義昭が将軍として明智光秀に与えたことが判明しますが、これによって光秀が義昭の臣下であることが分かります。, 昨今ハ懸御目、快然此事候、就其我等進退之儀、御暇申上候處、種々御懇志之儀共、過分忝存候、とニかくニゆくすへ難成身上之事候間、直ニ御暇を被下、かしらをもこそけ候様ニ、御取成頼入存候、次此くら、作にて由候て、可然かたより給置候間、進入候、御乗習ニ御用ニたてられ候ハゝ畏入存候、かしく、, (引用:東京大学史料編纂所『大日本史料 第十編之七 196頁』1970年覆刻 東京大学出版会), 昨日今日お目に掛かり、私が義昭公からお暇を貰うことに関して、色々ご配慮を頂き、大変かたじけなく思います。とにかく、行く末が難しいことではありますが、義昭公から直ちにお暇を頂いて、頭を丸めることが出来ますように、御執り成しをお願いいたします。さてこの鞍ですが、しかるべき方よりいただいたものですが、差し上げますので、乗用にお役立ていただければと思います。, この書状は、日付がありませんが、元亀2年(1571年)12月20日付の他の書状と内容的に関連していることから、この近日のものと考えられ、明智光秀が足利義昭の近習である曽我助乗(そが  すけのり)に自分が義昭に仕えることを辞める執り成しを依頼している書状と考えられます。, ここで明智光秀は、織田信長から『叡山焼き討ち』の論功行賞で志賀の領地を得たことから、足利義昭と手を切ることを決めたようです。, どうやら、元亀2年(1571年)9月12日の『叡山焼き討ち』以後、織田信長の配下となって行ったようですが、それ以前(永禄9年~元亀2年)は幕臣として足利義昭に仕えていて、”信長と義昭への両属”と言っても、形式上はともかく実体は、ほんの一時期であった可能性が高いと思われます。, 冒頭にありますように、戦国史の大家高柳光寿氏が述べたように、”明智光秀の前半生ははっきりしない”のですが、『明智軍記(あけちぐんき)』・『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』・『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』などで作られた通説によって語られています。, その中で、明智光秀は、最後天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』の時には、織田信長の家臣であったことは間違いないのですが、それ以前は誰に仕えていたのかは、足利義昭以前が「光秀のはっきりしない前半生」の為に通説以上には知り得ませんでした。, の順となっており、永禄9年(1566年)以降の明智光秀の後半生は、足利義昭の将軍擁立に動いていて通説も同一となります。, 斎藤道三に仕えただとか、朝倉義景に仕えただとか、諸国武者修行だとかが物語の創作になるかと思います。, こうしてみると、明智光秀は、生を美濃国で受けて、元服してからは一貫して美濃守護職の土岐宗家に仕え、守護の土岐家が道三によって滅ばされると、越前で朝倉家の保護下に入って越前での10年の雌伏の時を過ごし、永禄9年以降は、将軍足利義昭擁立の奉公衆に交じって積極的に行動し、義昭擁立の協力者である織田信長の知遇を得て(スカウトされて)活躍を始めたものと思われます。, 話が見えない最大の理由は、京都での騒乱に合わせて始まっていた美濃国での騒乱の解明が進んでいないことが、明智光秀の正体がはっきりしない事の原因ともなっているようです。, 〇新田義貞公菩提所称念寺四十一代住職 高尾察誠『称念寺のあゆみ』(2017年 称念寺), (function( timeout ) {