文治五年(1189年)9月3日に滅亡した奥州藤原氏と藤原泰衡。. 「一時の命を惜しんで隠れる事鼠のごとく、退くこと貎(※子犬)に似たり」, だが度重なる頼朝からの圧力や時勢の前に膝を屈したのは止むを得ない事であり、単純に泰衡ひとりを責める事は出来ない。また泰衡は秀衡の死後1年半に渡り遺言を守りながら、いずれ来るだろう鎌倉方の軍を迎え撃つ為に軍備を整えている。 ただし、直接手を下したのは頼朝やその配下ではありません。. 長男・国衡は妾腹の子であったために「父太郎」「他腹之嫡男」と呼ばれていたのに対し、正室を母に持つ泰衡は「母太郎」「当腹太郎」と称され、生まれながらに嫡子として扱われた。 奥州藤原氏の初代。 奥州の藤原氏は血縁的なことだけではなく、文化的にも京都の最新の貴族文化を積極的に採り入れていて、奥州藤原氏は東北地方に“首都京都に勝るとも劣らない貴族文化”を花咲かせた。, 東北地方北部(現在の青森県・岩手県・秋田県)は東北地方南部(現在の宮城県・山形県・福島県)とは異なり、弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどった。東北地方のは中央政権の支配が及んでいない地方王国が存在していたが、“東北地方最大の平野”である仙台平野を支配する地方王国が朝廷に服属すると、宮城県仙台市に陸奥国の国府である郡山城(郡山遺跡)が造られ、郡山城には鎮守府もつくられたとみられる。陸奥国は全国の国の中で“最上位の国力と地位”をもつ大国であり、更に面積においても他国を圧倒する“日本最大の国”だった。のちに陸奥国から全国で第2ランクの国である中国の出羽国が、陸奥国から分離してつくられた。その後、陸奥国の国府と鎮守府は同じ宮城県の多賀城(多賀城市)に移転し、のちに仙台市には陸奥国分寺と陸奥国分尼寺がつくられた。この多賀城の時代に、朝廷による北日本の征服政策が推進された。朝廷からエミシ(蝦夷)と呼ばれた北日本に住む地方王国の住民は、陸奥国府の多賀城軍(朝廷軍)に降伏すると俘囚(降伏エミシ)として差別された。 ここに「奥州合戦」が勃発。8月11日、阿津賀志山の戦いにおいて総大将・国衡が敗死。平泉は炎に包まれ、奥州藤原氏の繁栄を伝える建物も財宝もことごとく灰燼に帰した。 1189年に源頼朝によって藤原泰衡が滅ぼされるまで平泉を中心に東北地方に勢力を持っていた豪族でした。, 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とは平将門を討伐した人物で、またの名を俵藤太(たわらのとうた)と呼ばれました。, そうであれば、奥州藤原氏は中央藤原氏と繋がっていると言えますが、その真偽を判断する材料はありません。, その経清は前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)に反旗を翻し、安倍氏に味方しましたが、1062年厨川(くりやがわ)の戦いで敗れました。, 7歳の息子・清衡は、処刑されるところを、母である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)が敵将である清原武則(きよはらのたけのり)の長男・清原武貞(たけさだ)に嫁ぎ、彼の養子となって助かりました。, 清衡の家族構成は以前の敵が混じった複雑なものになり、清衡は義兄や異父弟らと1083年に始まった後三年の役で争います。, 奥州藤原氏初代当主・藤原清衡に続いたのは、長男の惟常との後継者争いに勝利した二男の基衡です。, 秀衡は仏教文化を誇る大都市・平泉で独自の勢力を持ち、源平の争いにも中立を守って中央から距離を保っていました。, しかし、源平合戦に勝利した源頼朝が秀衡の財力に目をつけてその配下にしようとします。, しかし秀衡の死後、4代目当主・泰衡は、頼朝からの執拗な圧力に屈し、義経を襲撃して自害へ追いやりました。, また、娘の乙和子姫(おつわこひめ)は源義経の従者となった佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の父となる佐藤基治(もとはる)の後妻に入り、その子孫が全国的な「佐藤」という姓の源の一つであると考えられています。, 3代目の秀衡の血統では、彼の6人の息子たちは、そのほとんどが早くに戦死したか不明です。, しかし、秀衡の息子忠衡には生存説もあり、彼の三男・助衡が武蔵国で「武蔵国の藤原氏」として「武藤」を名乗ったとも岩手の下閉伊郡野田村で「中野」氏を称したとも言われます。, 泰衡の息子・泰高の子孫については1377年に瀬戸内海の因島に移り住み、「巻幡(まきはた)」という姓を名乗ったという伝承があります。, 歴史の中における「藤原氏」として気になるのは、あの朝廷の中心で活躍した藤原道長に繋がる藤原氏と奥州藤原氏が関係するのかどうか、ということです。, 近年の研究では、『造興福寺記』という五位以上の地位にある藤原氏の名前の記録に藤原清衡の父・経清の名前が確認されています。, 道長との血のつながりは不明ですが、中央の藤原氏からもその一族の者であるとは認められていたようです。, さらに、中尊寺金色堂に保存されていた奥州藤原氏の遺体計測により、身体的特徴として彼らは東北人というよりは京都人であったと考えられています。, ② 清衡を初代当主とした奥州藤原氏の系譜は4代目の泰衡の代に源頼朝によって終了した, ③ 現代につながる藤原清衡の明白な直系子孫は不明だが、「佐藤」「武藤」「中野」など現代でも耳慣れた姓が奥州藤原氏に関わる可能性はある, 奥州藤原氏の血筋であるという言い伝えのある家系もありますが、残念ながら以前あった記録が散逸するなどして客観的な判断ができません。, 藤原清衡の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 遺体の損傷は初代・清衡が一番ひどく、基衡や秀衡、泰衡の遺体は比較的、良好だったそうです。, なお、泰衡の頭部については当初、首桶に「忠衡」と書かれていたことから、頭部は藤原忠衡のものだと思われていました。, しかし、顔面部分に傷があり、釘で打たれた形跡もあることから、首桶に入っていた頭部は処刑された人物のものである可能性が高いと推測されました。, その結果、この頭部は源頼朝によって死後にさらし首にされた泰衡のものであると考えられ、今に至ります。, この調査の結果、奥州藤原氏は近世アイヌ人や鎌倉時代人より、現代京都人に近い骨格をしていることが確認されました。, また、初代・清衡と三代目・秀衡は蝦夷系の血筋が濃かったのに対して、二代目・基衡は貴族的な血筋が濃かったことも指摘されたそうです。, 一方、学者のなかには、ミイラは人工的につくられたもの、という説を唱える人もいました。, しかし、1994年の調査では、やはりミイラ化は自然に発生したもの、という結論が出されました。, これには、遺体が安置されていたところは偶然、ミイラ化しやすい環境だったことが関係しているようです。, 平安時代に栄華を誇った奥州藤原氏。その当主たちの遺体は今も中尊寺に納められています。.